第二章 愛の実際 : 六 子女の愛 : 1.子女は父母の愛の結集体

 愛する父母の前に、子供というものは極めて世界的な代表です。

 子供がいなければ、なぜ孤独な人だというのでしょうか。子供は、愛を中心として全宇宙を造られた主体者であられる神様の心情的事情を体恤するためのものです。子供は、私が動機となって生まれたけれども、その子供を生んで愛することによって「ああ、神様が人間をこのように愛したのだなあ」ということが分かるようにするのです。

 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰っていきたいとう願いがあるがゆえです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じて悟るようになるためです。これは本然の発露です。子供をもったことのない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛までも悟ることができないので、その人がもっている愛はいつも不完全なものなのです。

 天国に残ることができる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものを拭いてくれた父母の心で困難を耐えて、父母に仕えてこそ孝子になることができます。

 愛をもった父母にむち打たれ、しかられても、その子供はうれしいのです。

 父母が、子供のために生命までも与えてくれました。ですから、子供も父母のために生命まで与えなければなりません。生命が愛から生まれたので、本質的な愛の前に生命線を犠牲にしていくのが理論的な結論です。矛盾的な理論ではないというのです。

 子供が父母に借りをつくるまいと努力をする時、父母も生きがいを感じます。

 愛を中心としてむちを振るったとしても、打ったのちに慟哭する父母に対して子供が反抗したり、悪口を言ったりできますか。真の愛は調和の両面的価値をもっているのです。

 立派な母親は子供を懐に抱き、世界を動かすことができる善なる存在になるために、どのような困難な立場でも耐えることができなければならない、と子供に教えるのです。母親は、善は滅びないとう天倫に通じているからです。

 皆さんが子供を産んでお乳をあげ、かわいいと言いますが、なぜかわいいと言うのでしょうか。それは天と地に代わって、神様の子供を抱いているがゆえにかわいいと言わなければなりません。神様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を抱擁するために動いています。子供を抱いてお乳を与える母親は、天と地に代わって神様の愛する息子、娘を抱いているとう徹底した心情で、息子、娘を抱かなければなりません。

 子供の愛と幸福の基地は、父母の愛です。子供は真の愛によって和合一体となった父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。子供に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく霊性を完全なものにしてあげる、真の愛の生命的な要素を提供することです。

 父親がいくら子供を愛するといっても、母親の愛にはかないません。母親は、精誠を捧げたとすれば誰よりも精誠を捧げたし、苦労したとすれば誰よりも苦労したし、愛したとすれば誰よりも愛したと見るしかありません。 そのような意味でも、女性が情緒的な分野において高く貴い位置を所有しているのであって、父親がいくら子供を愛するといっても母親ほどに子供に対する愛は分かりません。ですから天国に行くならば、女性が心情の天国に行くでしょう。そのような観点から見れば、女性として生まれたことは悪くありません。また神様は公平だということも分かります。