第二章 愛の実際 : 五 性愛 : 2.愛の法は習って知るものではない

 皆さんは家庭で愛する法を習いました。どこのお父さんが子供に、お父さんから愛する法を習いなさいと言いますか。またお母さんも子供に、お母さんから愛する法を習いなさいと言いますか。また、父母が子供に対する愛し方を誰かに習いましたか。新郎新婦はこのように愛さなければならないと誰かから習いましたか。習ったことがありませんが、よく知っています。それは本当に神秘的なことです。

 父母が子供を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。ここにいるおばさんたち、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。そこに何の学士、博士がいますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないほど完全なものなのです。完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に行くというのです。

 愛というものは言葉ではよく理解できません。父母の愛をいくら説明しても、父母がいない人には分かりません。夫婦の愛をいくら説明しても一人で暮らしている人には理解できません。結局、自分が感じることができる主体や対象圏から、行動の一致点を備えることができる所から、彼が好むことができるものを私が好むことができる所から、また彼の一切が私の一切に連結され得るその場から、相対の愛を感じるのです。

 赤ちゃんが生まれるとすぐに母親の乳を探し、動物たちが生まれながらにして母親の乳を求めるのは、教育と訓練を受けなくても、自然に行為に移されるのです。これは正に愛の力が作用しているからです。

 真実な愛は天理の法度なので、教育される前に、自然に成されるのです。父母の愛が、生まれた子供の顔が醜いかかわいいかによって、大きくなったり小さくなったりして現れないし、父母が立派か立派でないかによって、父母に対する尊敬と愛が変わる子供はいません。顔が醜いので私のお母さんでないと言う子供がいますか。お前は私が生むには生んだが、醜いので私の子ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいれば、彼らを人間だと言うことはできないでしょう。

 真の愛は経験を通じて得られ、体恤を通じて知るようになっています。真の愛は言葉や文字、あるいは一般教育を通じて体得できるものではありません。生活を通じてのみ完全に体得するものです。赤ちゃんとして造られたアダムとエバは成長しながら真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を段階的生活を通じて経験し、体験することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得する時、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

 結婚して、年老いて死ぬまで子供をもつことができなければ、子供に対する愛は千年、万年たっても知ることができません。子女に対する愛を千年、万年勉強しても知ることができませんが、息子、娘が生まれるや否や、瞬時に知るようになります。