第二章 愛の実際 : 四 夫婦の愛 : 2.夫婦の愛は分散すれば不完全

 人間は本性的に、自分に対する相対の愛が分散することを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、親子間の縦的な愛の関係と違って、分散すれば既にその完全性が破壊されます。それは、夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には自分の相対に絶対に尽くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。

 愛の強力な力によって結ばれた夫婦ならば、相対がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさが気に入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれているからです。

 夫婦が一緒に暮らすのに、一生の間楽に暮らすよりは、愛を中心として曲折を経ながら、台風も来て、暴風雨も降って、雷も落ちる、そのような多様性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。男女の問題を解決するためにはお金や知識ではなく、愛が必要です。

 人の言葉をよく聞いてみると、女性の声のほうが男性の声より高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。 それでは男性はどうでしょうか。男性は広い愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては女性が高いですが、親戚や国を愛する心は男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習って、世の中を愛するのは父親に習うようになります。 どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。

 最初の三年間は接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、礼節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。

 愛を通じてのみより大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみ数が増えていきます。ですから、夫婦が闘う愛からは亡国の種が生まれます。しかし「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精髄を取った、神様のような知恵の王子、王女が生まれます。

 夫婦はなぜ争うのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は長く立ち行きません。互いに愛を受けようとする家庭は壊れます。しかし互いに愛そうとする家庭は、「壊れよ」と願っても壊れません。互いに「ため」に生きようとする愛は永遠なものです。

 愛は愚鈍で間抜けなものです。どのような状況も意に介しません。本当に愛するならば、横で誰が見ていようが関係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。

 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入らせることはできません。有識と無学が夫婦の愛を薄くすることはできません。純粋な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表することのできる男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。

 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する関係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かが変わったということで、二人の間が変わったことを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わりませんが、人の心が変わったのです。

 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。しかし真の夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。

 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒根性を持った者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンと変わりありません。

 夫婦は対だと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命が悪くても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反対に妻の運が悪くても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造ってそこの夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計画を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相対を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とはそのように恐ろしいものです。

 夫に会えばいいかと思ったら、悪い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。二十四時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。

 幸福な家庭は、夫が出て帰ってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談して、新しく開拓できる要因を発見する家庭です。お互いに力を合わせて研究する家庭が幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こうと同調するようになります。

 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相対の顔が一つの模様でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔はうれしい気持ちで見れば、うれしい状態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。水が流れる時、曲がりくねるのと同じように、一つのうねりが回るたびに新しい模様が現れるように、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。

 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美はボールのように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。ですから、自分の妻の顔をむやみに評価してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかし徳や福を備えている女性は違います。顔がきれいな美人も、二、三人産んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を産んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。

 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神様の代身として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。

 愛は互いに慕い合う時、価値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて愛を下さいと言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであって、ぼうっとしていたら、愛が来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど気分が悪いですか。

 夫婦がキスするために歯を磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、歯磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。歯を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、歯磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は滅亡の道に導いている主犯だと言えます。

 味噌煮込みは、煮込み鍋で炊いてこそ本来の味が出ます。さっぱりして風味が良い味噌汁の味は、一度味が付けばどこに行っても忘れることができないでしょう。同じように、人も風味良くさっぱりした味のような愛に、一度味を付ければ変わらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に手に入るならば、それは「真の愛だ」と言えないでしょう。

 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所ではそんなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何と言うでしょうか。夫婦同士でするのに、何の関係があるでしょうか。

 鳩も互いに「くっくっくっ」と声を出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出会う時、本当に愛する人同士が出会う時、出会う声があるとすればどのような声でしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。

 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かす清涼剤になるのです。夫婦がささやく言葉の中で「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。

 夫婦が愛し合うのに、夫の父が横に寝ていても夫の母が横で寝ていても、クライマックスになる時は素直に声を出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜にこれくらい声が出ると町内のねずみたちがびっくりして、鳴いていた鶏たちもさっと鳴きやむ」と言うほど、町内に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚いて、鶏が鳴きやむほどに声が出る出来事がなぜ起こるのか」と聞けば、「なぜかって、どうして? 天地が振動する愛の喚声がわき出るからそうでしょう」と言ってもいいのです。

 夫婦の愛の場は全宇宙の花です。歴史時代、総合実体として現れた新郎新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神様が来られて住み着かれます。ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神様との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場に和して、妻の部屋を訪ねなければなりません。

 愛の火がつけば、二つの生命が一つになり、次に血統が合わさって愛で沸き始めれば、その渦巻く中で私の生命が主人として種が植えられるのです。男性の生命体、女性の生命体が愛によって運動し始めて回れば上がるでしょうか、下がるでしょうか。上がる場で芽生えれば息子になり、下がる場で芽生えれば娘になります。理論的にはそうです。私はそうなのかそうでないのか分かりません。理論的に合っているので、事実がそうなのかそうでないのか研究して一致させれば、博士学位、ノーベル賞受賞ものになるでしょう。

 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一ヵ月でも二ヵ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると悪臭が出て、すっぱくて渋くてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は「その臭いがどのような香りよりもっといい」と言うのです。悪臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、変だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計数よりも、「いい」という計数がさっと上がるというのです。

 息子、娘を再創造するのは簡単ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大変なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこそ真の愛です。愛には汚いものがないのです。

 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになれば絵に描いたお月様のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括して余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡が残りますか。残りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神様まで連結するためです。

 女性はなぜ髭がないのでしょうか。神様はアダムが髭を生やした姿を御覧になって気分が良くなかったのです。エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神様の創造物の中で一番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。