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第二章 愛の実際 : 三 父母の愛 : 2.分け与え、また分け与えても完全な愛 |
子女をなぜ愛するのでしょうか。なぜ愛さざるを得ないのでしょうか。それは神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏から受け継いだのと同じだからです。アダムとエバを造っておいて神様が喜んだ、その喜びを私たちも感じるのです。神様の愛を受け継いで、神様の創造的権限を受け継ぐのです。
子供をたくさん育てた父母は、何かしら愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子供をたくさん育てた人は、悪い怨讐を打つことができないということを自ら感じることができる人です。それほど何かしら広い土台に立っているし、広い法度をもって生きているのです。
赤ちゃんは、生まれると母親の愛の電波に従って、自動的に乳を探していきます。醜女でも美人でも関係なく、母親ならいいのです。これこそ調和した無二の、聖なる姿なのです。
人は愛によって生まれ、愛を受けながら大きくなります。「私」という存在は、父母の愛の実なのです。お母さん、お父さんの愛がどのようなものかを、実際の実で見せてくれたのが「私」です。父母は愛の実である「私」を愛さなければなりません。その実を通じて無限の愛が実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的神様の愛まで連結され得る道がここにあるのです。
私は父母の前に二つとない愛の同参者、同伴者です。愛をもってお母さん、お父さんと同等になることができ、同等な場に上がっていくことができるのです。それが愛の特権です。真に愛する息子、娘に自分のすべてのものを相続させようとします。宇宙の相続は、愛の伝統上で同等な愛の価値的位置を得る時、すべてのものを心置きなく100パーセント相続するようになっているのです。それで父母は孝子(親孝行)を願うのです。孝子は、父母の永遠の愛の同伴者として愛の相続を受けるのです。
父母の愛によって生まれた赤ちゃんはどのようなことをしても憎くなく、ただただ好きなのは、その赤ちゃんが自分の血と肉によって、また愛によって造られた分身体だからです。おしっこをしても、うんこを垂れ、鼻を垂らしても、ただかわいく、愛らしいのです。その中に愛が染み付いているからです。
父母と子供の間の愛は、父母から来ます。私たちは生まれながらにして父母の愛を受けます。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛を体験するようになり、夫婦の愛が継続するためには、また子女を生んで愛さなければなりません。父母は子供がいてこそ真の愛を感じることができます。兄弟同士の愛だけでは、父母の愛がどのようなものか分かりません。言い換えれば、父母から始まって一回り回って父母に帰ってこそ、その愛を知るようになるのです。
私には父母の愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることができません。かえって宇宙のすべての力がこれを養護します。ですから私がどこに行っても、父母はついてくるのです。霊界までも父母はいつも共にいようとします。ですから、父母が同行するのを嫌うのは罪です。したがって私たちは、父母を自分の体のように思い、愛し、親孝行するのが、人間にとって最高に価値があることを知らなければなりません。
私たちが生まれたのは、父母の愛からです。父母の愛から接ぎ木して出てきたのです。生命の連結を言う前に、愛によって血筋がつながり、生命がつながったのです。「私」というものがなぜ貴いのでしょうか。生命をもったから貴いのではなく、父母の愛に同参したから貴いのです。愛は父母が成しましたが、愛の実は「私」です。始まりと結実をもって生まれたのが、正に「私」なので貴いのです。
真の父母は、愛の伝統を継承させようと骨を折ります。そこには東洋人も西洋人も関係がありません。氏族を超越してすべての父母たちが立てようとするものとは、普遍的な愛の伝統です。人は誰でも、自分の家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。洋の東西を問わず、すべての人は、そのような人生を渇望します。このような場合、その伝統は本質なのです。なぜならば、伝統のみが未来と連結されているからです。
夫婦間の愛と親子間の愛の中で、どちらが大きいでしょうか。西洋の人々は夫婦間の愛が大きいと思っています。しかしそうではありません。夫婦間の愛より、子供のための愛がもっと大きいのです。夫婦同士の愛では、自分を愛してくれなければけんかが起こりますが、親子間では、愛さなければいけないといってけんかが起こります。父母の愛が中心であり縦的なもので、天の法度に近い道に従っていくからです。ですから「ため」に生きる愛がより真の愛に近いということを、私たちは知ることができます。どんなに強い男性も、どんなにきつい女性も、その愛の前には頭を下げるのです。
父母が貴いのは子供のために与えるからです。それがあとで入れ替わるのです。父母は年が多くなれば、また子供になるのです。昔は父母が子供の先生でしたが、年が70、80歳になると再び子供になるのです。その時は子供が父母を身代わりするのです。父母が自分を育ててくれた代わりに、子供が父母を愛さなければなりません。それが天地の道理です。