第二章 愛の実際 : 三 父母の愛 : 1.父母の愛は本質の愛である

 子供は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子に対して「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。

 子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。

 父母は変わることができますか。父母の愛を革命することは歴史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶対に必要とするのです。唯一に必要とし、不変に必要とし、永遠に必要とするのです。

 子供はなぜ父母を恋しがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。

 父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず犠牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで満足し、それで幸福だというのです。与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神様の側を身代わりできるからです。

 父母の子供に対する愛は、ただそのまま生活的な因縁を通じるだけの愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れられず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母には子供を愛する心が自然にわき出るのです。

 真の愛とは何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、与えてはただ忘れるのです。ことさら与えたことを覚えていません。またいくら注いであげても疲れません。七十歳になった息子に対して「おい、車に気をつけなさい」と言ってもぎこちなくはなく、数十年その言葉を何回繰り返しても、嫌になったり疲れるということはありません。堕落したこの世の父母がこうならば、ましては本質世界で神様の愛を授け受ける時、疲れるはずはありません。

 父母は子供を愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです。父母は権限をもって、いつも堂々とした立場で子供を愛するのではありません。父母は自分を犠牲にしても子供が立派に育つことを願います。父母は変わらない愛の主人です。父母という存在は、子供が千態万態に変わってどのようなことをやっても、子供のためにという心だけは変わりません。ですから変わらない父母の愛は貴いのです。

 父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、大変だとは思いません。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血と肉を削って与え、その価値がいくらなのか帳簿に付けておきますか。しないでしょう。かえって、全部与えられなくて、もどかしがるのです。

 親子関係はどのようなものでしょうか。愛を中心としてどのような関係でしょうか。親子関係は父母の愛が原因ならばその子供は愛の実であり、結実です。このように見るのです。結実と原因が掛け離れたところから出発するのではなく、一つの場から出発したものです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で私が結実として現れたという言葉はどのような意味でしょうか。父母が愛した結果として登場したのが、現在の「私」だというのです。ですから愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、親子関係において子供だというのです。

 親子関係は縦的な側面を代表します。ですから親子関係の愛は、変わることができません。私たち人間の歴史上でもそうでしょう。夫婦の愛は、横的な因縁なので四方性を備えたものです。ですから父母が子供を捨てることはできず、子供が父母を捨てることはできないのです。

 子供において父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びにならなければならず、父母において子供に対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させられる喜びにならなければなりません。親子の関係は、それこそ宇宙の根本でないはずがありません。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならこれ以上の悲しい場がないと、結論づけることができます。

 親子の関係は何について言うものですか。これは血筋が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血筋が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血筋によって連結されなければなりません。血は生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によってですか。愛によってです。

 私は、どこから生まれたのでしょうか。私は、父母の愛が最高に花咲くところから生まれたというのです。花咲くには美しく花咲き、美しく咲くだけでなく香りを漂わせ、その香りは父母も好み、神様も好み、万宇宙も好む、理想的な花として咲くことのできる、そのような中から私が生まれたというのです。

 宇宙を総合した男性、女性として生まれたその父母が、愛の花を咲かせるその場に、喜びのその場に、一つの種として植えられたのが子女なのです。

 私は誰でしょうか。父母の愛の出発の根源に同参した者です。これは原因と結果が一箇所で出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母と、結果的な私の生命の愛の根源は一つです。そのような意味から見る時、愛を中心として父子一身という言葉が可能だというのです。

 愛を抜けば、一身や一体という言葉はあり得ません。私は腹中から父母の愛を受けます。愛の本質によって腹中に私を懐妊したその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜそうなのでしょうか。愛の結実だからです。それで愛によって生まれ、愛から生命の因縁を受け継ぎ、愛を受けながら大きくなって相対を迎えられる時になれば、相対をめとるのです。

 親子の関係は、いかなるものをもってしても壊すことができません。原子爆弾でも壊すことができません。絶対に壊すことができないし、別れることができないし、捨てることができない関係です。

 父母と子女の因縁は、切ろうとしても切れません。私の愛と私の生命の主体性をもったものが子女なので、これを切れば私を否定し、私の生命を否定する立場に立つので、愛の結実を否定できないのです。ですから父母は、子女のために生命を捨てられるのです。このような論理を得ることができます。

 夫婦同士暮らしながらどんなに楽しく愛すると言っても、子供がいない夫婦が幸福な夫婦ですか、子供がいる夫婦が幸福な夫婦ですか。子供がいないのは未完成品です。未完成夫婦だというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。

 父母が子供を愛するのを誰も打つことができません。打てないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子女を抱いて愛するその場は宇宙の法が攻撃できず、保護するようになっているのです。今までこれを知りませんでした。

 子供が病気になって体が不自由になっている時は、高く深い父母の心情は、その体の不自由な子供に流れるのが原則です。違いますか。そのような不具者の心情は谷底にあります。父母の心情は、てっぺんの大きいところにあります。そのような父母の心情が、頂上からその深い谷底に流れていきます。

 子供のために生きる父母の胸には、悪いものがありません。服がぼろであればぼろであるほど、悲惨なら悲惨なほど、それが涙の深い谷底を掘っていくのです。

 皆さん、赤ちゃんがうんこをするのを恥ずかしがればどうなりますか。うんこをしておしっこをしても恥ずかしがらずに、母親がうんこを片付けるのを見て、きゃっきゃっと笑っているのです。それはどれほど純真でしょうか。それは愛によってのみ可能です。愛には醜いものがないのです。愛によってのみ、すべて克服できるのです。

 胸の中で乳を飲ませて育てる母親の切なる心、子供がうんこをし、おしっこをして臭くても、愛によってその環境を忘れられるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダム・エバを愛したかったその心がどれほど切なるものだったでしょうか。一度考えてみてください。

 父母の心は与えても足らないと感じ、愛しても十分愛し切れないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、与えてからもやり切れなく気の毒に思う心、このようなものがあるので、永遠の愛に通じる本質に属することができるのです。これが愛の、出発の伝統的動機です。

 父母が離婚するのは、刀で子供を半分に切るのと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう親は、どこに行っても禍いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできません。

 赤ちゃんのおなかがすけば、母親の乳が張ってきます。乳が張って痛くなると、きしまないところがありません。おなかがすいた赤ちゃんを抱いて乳を飲ませる母親の気持ちは、表現し難いものです。張った乳が赤ちゃんに飲まれて小さくなると、母親は心地よく、気分が良くなります。それで母親でなければ分かりません。また赤ちゃんがちゅうちゅう乳を吸いながら乳を触るのを見る時は、愛がどっとわき出るのです。

 鮭の一生を見れば、鮭は卵を産んでから死にます。卵をはらんで産むために雄と雌が無条件に一つになって……。それを見ると、死ぬ日が決まった死刑囚の立場で夫婦が愛する、それ以上に愛し合うのではないかというのです。雌が卵を産めば、雄は地を掘って保護してくれます。それこそ理想的なカップルです。そして卵を産めば死ぬのです。死にゆく雄、雌のいろいろな姿を見る時、本当に大きな衝撃を受けます。そうやって、その親の体は赤ちゃんたちの餌になるのです。

 創造主がいるならば、なぜそのように造ったのでしょうか。それを見れば赤ちゃんがどれほど重要か、愛がどれほど重要かということが分かります。愛が最高のものであり、赤ちゃんが最高のものだということを見せるための一つの表現として、鮭を造ったのだろうという理論は極めて当然な言葉です。鮭の一生は本当に驚くべき人間の教材です。