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第二章 愛の実際 : 一 神様の愛 : 2.愛の目的は、神人愛一体理想 |
天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入って神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち「親子の関係である」と言われました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の関係だと思っていますが、それは神様との根本関係を言うのです。
父と息子が出会うことのできる最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。それを決定できる最初の因縁と最初の統一の場所が親子関係が成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事実です。
本来はアダム・エバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。そこで花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめ、花の香りを嗅ぎながら自らそこに酔うことのできる、そのような愛を神様は夢見ていたのです。
神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天国だ地獄だと心配することもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。
真の愛を中心として、男性と女性が神様を身代わりした立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、神様のすべてのものが私のものになるのです。真の愛が偉大な理由は、真の愛によって私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になれるからです。聖書に「神様が私の中にいて、イエス様が私の中にいる」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。また、孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんは神様のような立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに、横的に展開するのです。
人間の完成は、神様と縦的な関係を結ぶところから出発します。
神様が絶対的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のため、知識のため、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。このような観点で神様は父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸をなすのです。もし軸が連結されれば、人間と神様が愛によって一体となった関係を、何が作用しても絶対に切り離すことはできません。神様の本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。蜂は春に蜜の味を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張れば、お尻が離れても蜜から口を離しません。
神様から愛を受けたがる、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場はまさしく息子の場であり、娘の場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点はどのようなところでしょうか。そこは絶対的な神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。
愛の巣の中で抱かれ、愛の巣の中で生まれる息子、娘には、どれほど価値がありますか。神様が毎日のように訪ねてきて、見物したいし、触ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど価値があり幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。
アダムと神様が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムの中におられます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリント?3・16)とあります。私たちが神様の聖殿だというのです。
私たち人間は、神様が造った創造的な傑作品として神様に似ています。神様が永遠であられるので私たちも永遠な性稟をもたなければならないので、私たちの心は年を取らないのです。人は永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在価値をもつことができるのです。ですから人間は万物の霊長になるのです。神様の愛は神様の愛だけで終りません。その愛は必ず人間によって横的に広がります。電気のプラスとマイナスがやり取りすれば、反応する極ができます。そのようなものが他のところでまた展開します。このように神様の愛は横的に広がってきます。
人類は世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし堕落することによって占めなければならない長子権王子、長子権王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで人類は神様の真の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道を歩んできたのです。
堕落していないアダム・エバの体は、神様が臨在できる家です。アダム・エバが神様を心の中心として真の愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体は闘わなかったことでしょう。堕落とは悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血筋を引き継いだことです。ですからこの血筋を改造しなければなりません。オリーブの木を真のオリーブの木に改造してこそ、救援摂理の完成が成されます。