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第二章 愛の実際 : 一 神様の愛 : 1.愛は神様から始まる |
神様は愛の神様です。パウロは「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
神様の愛は太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は太陽に向かいます。これと同じように、神様の愛は生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。
神様は、愛の実体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。真正な愛は、始めと終わりがあり得ません。
心情の世界で一時間生きるのは、千年の歴史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の歴史に誇ることができるように、高貴なことを体験できるようにするのが真の愛です。愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界が、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのが難しいですが、あたかものどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚な世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような気分になる世界です。
天地を創造された神様は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。ですから神様は、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのまま譲りたいのです。
神様はどのような味を一番好まれますか。神様が臭いをかぐならばどのような臭いを一番好まれますか。聞くならば何を聞くことを好み、感じるならば何を感じることを好まれますか。神様が好まれるものは一つしかありません。それは愛です。神様の五感を集中させることができ、喜びを充満させることができるものがあるならば、それは愛よりほかにありません。
神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人間が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。
神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。
神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。私たちも同じです。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。
神様は愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですから神様は存在世界の現れる時、愛の本質として現れます。
子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、神様はそのすべての段階の愛の主人として位置を占めることができるのです。ゆえに、そのように神様を愛の主人にさせた人間こそが、神様より貴い存在であると見ることができます。ちょうど、自分自身より愛する人が何千倍も価値があり、貴く思うのと同じです。
神様は愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、神様の愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。分かりますか。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのような理になっています。
愛とは何でしょうか。回ることのできる潤滑作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用は愛しかありません。それは根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば発展するようになっています。
神様の愛は変わらないところに現れます。神様の愛は不変なので永遠です。神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければこの宇宙の公約全部がむなしいものです。
神様は私たちの父です。夜も昼も子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反対の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として神様の完全な愛を受けなければなりません。
神様は今まで、御自身と近い側にいる人たちと、氏族、国家にまで愛を与えました。少ないと言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくれました。それも不足で、愛する息子の生命までも与えました。神様は一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えて与えようとされます。ですからその愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天国に変わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちが神様に百の愛を捧げるならば、神様は千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。
神様の愛さえもてば、神様の胸の中に入っていてもいいし、神様の鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。
神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。
神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子関係です。このように見る時、神様は愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女に対しては威信と体面を超越します。いくら罪人のできの悪い子供でも、神様をつかめば神様が「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、神様が抱き締めてほお擦りをして愛してくれるのです。このようなことを体験すれば、骨と肉とが溶けてしまうでしょう。
神様は千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっておられる方です。そのような方なので私たちが神様を求めるのであって、与えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。
神様の愛に接すればどうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。100%その愛に酔えば、手を引くのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という諺があるように、それほど人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があります。
神様がおられるところには愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたいし、受ければ受けるほどそこに千万倍加えて与えたいのです。ですからそこが、天国ですか、地獄ですか。そこでもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。神様の愛はそのようなものです。
愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出して鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。
神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄を丸ごと投入して創造した人間なので、人間が神様を引っ張れば、引いてこられざるを得ず、また神様が人間を引っ張れば、引いていかざるを得ません。
人間はなぜ神様が好きで、ついていくのでしょうか。神様は千年、万年すべてのものを与え、また与えても恥ずかしがりながら「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょう与えることで満足するのではなく、未来にもっと多くのことを与えると約束する心をもっておられる方だからです。
人間はなぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象としての価値をもつことができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないので、私は永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同様に神様であり私になります。愛で一体となりさえすれば、神様を私のポケットの中に入れることもできるのです。
私たちがこのような神様の愛の圏に通ずればどのような気分がするでしょうか。小春日和にいい香りのする園で美しい花々を見つめ、香りという香りをすべて嗅いで酔った気分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。
神様の愛が縦的な愛ならば、男女間の愛は横的な愛です。男性と女性が出会うには、横的な愛を縦的な愛に接ぎ木しなければなりません。90度の角度に合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破壊されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と関係を結べば、知識も権力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。
神様はアダム・エバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。神様が人間に対して願う終着点とは何でしょうか。息子、娘に会って愛する場です。そして人間が願う終着点も神様を父として侍り、息子、娘として愛される場です。
神様においてアダムは自分の中の自分であり、未来の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは神様の体です。またエバは神様の夫人であり、体です。アダムは神様の体に相対する霊的相対であり、エバは肉的相対です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。神様と共に愛するのです。それで結婚は極めて神聖なのです。
神様に知識は必要ありません。神様は知識を創造した方です。神様に権力は必要ありません。全知全能だというのです。神様にお金は必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思うままに造ることができます。神様に必要なものはたった一つです。それが何かと言えば、愛です。神様一人で愛を受けることができますか。神様は愛を思うままにできるのではないかと言うかもしれませんが、とんでもありません。神様において一番必要なものとは、真の愛を分かつことのできる対象者だというのです。人々はこれを知りませんでした。
神様は私たちに愛を与える時、限りなく与えようとします。神様はすべて与えても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。神様も愛の中に入れば、僕の暮らしをしてもいいと言うのです。愛は法を超越します。
神様の愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを総合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によればいくらでも満たすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。
神様は愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚の愛、民族の愛がわき出ました。
愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるのではおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。
男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし神様を訪ねていける道を知って神様の愛の味を本当に知れば、神様のその愛はこの世はどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。
神様は絶対的な方なので、そのような神様に他のところで侍ることはできません。愛する人同士は、共にいたがるし、共に住みたがります。どのように共に住みたいのでしょうか。神様に深く染み込んで一つになって、共に住みたがります。それが愛の本質です。
心は狭いですか、広いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に数百億円をあげても、またあげたいのが心です。心はこのように素晴らしいものです。ですから人間は無限の愛、無限の希望の花として咲くことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限に神様の性稟に似たからです。
皆さんの心はどれほど大きいでしょうか。これは測定できないほど大きいというのです。また小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は大きく広げれば、無限に広げることができるし、狭めれば無限に狭めることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ心がそのようになっているのでしょうか。それは、神様が臨在できる神様の家になっているからなのです。
愛は一番近い距離を通ります。簡単な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、平衡にならなければならないでしょうか。愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。矢のように直行しますか。夜も昼も関係なく、春夏秋冬いくら歴史が長いといっても、愛は一番直短距離を通ろうとします。
愛だけは万有において直短距離を通れるようになっています。ですから上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。