第一章 真の愛というものは : 五 愛で完成する :

 神様の創造目的は、神人愛一体の愛の理想世界です。人間は、神様の最高最善の愛の対象として造られました。ですから人間は、創造物の中で唯一神様の実体をした対象です。人間は、無形の神様の前に見える体として生まれました。完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また平安に、いつでも入ってきて臨むことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の理想は、人間を通じて父母と子の縦的関係で実現、完成されます。

 人間は何のために生きるのでしょうか。「愛のために生きる」とすれば、どれほど素晴らしい答えでしょうか。人間は愛の実として生まれ、愛しながら生きて、永遠の愛である神様の懐に帰るようになっているのが創造本然の人生です。

 人間は、神様の愛の核と一致する立場に立った時、心と体が一体を成すようになり、神様の愛の圏内に心と体を一体化させ、入れば、成熟した人間になります。その時、初めて堕落する前の本然の人間として個人完成が出発するのです。

 神様は真の愛の王であられ、主人であられます。もし真の愛の王になられ、新郎のほうが神様ならば、相対者となる妃が必要だということが絶対的な原理だというのです。それでは神様の前に、絶対的なその方の前に、真の愛の相対になれる方が誰かと問うならば、それは真の人間です。神様の愛と一体となる、アダム・エバだったのです。

 男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。私の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を築くために行くのです。

 人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられない時には、再び新しい目的を追求しなければなりません。限界点が愛より上ではあり得ません。

 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結び付けるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結び付ける中心点が正に愛というひもです。

 貧しい田舎の農夫として田舎で草取りをして、農業をする立場にいたとしても、その農夫に心と体に膨れ上がる愛の情熱が燃え上がっているとすれば、心の五感と体の五感が完全に合わさって、この上もない喜びを味わうことでしょう。このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点をもっているならば、時計の振り子の震動のように神様の胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんと神様が共に回るというのです。一度回り始めれば、うまく回ります。行けば行くほど加重された力は遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになります。

 すべてのものを包容して許す愛は、誰から始まると思いますか。愛は人間から出発するのではありません。愛は主体であられる神様から始まります。神様は愛で人間を創造されました。そうして人間から愛を迎えることを願われます。その愛をまた人間に返すことによって愛を完成するようになります。

 愛は絶対的です。その絶対愛の前には、絶対知識、絶対能力、絶対権限をもった神様も、絶対服従します。

 真の愛というものは、一つから始まって360度を回りきって到達しなければなりません。そうしてこそ真の愛です。到達する前には真の愛になれません。

 人生の目的は、神様の愛を占領することです。神様の愛を占領できなければ、人間がいくら願いをかなえたとしても、それは成就したことになりません。いくら幸福だとしても、その幸福は永遠な幸福になれません。それで愛すれば永生を成すことができます。永遠によく授けよく受けられるようにする動機が、神様の愛です。

 この世で一番聖なるものとは、真の愛です。真の愛は神様が存在するならば、それ以外の道はありません。神様が本当に願うものは真の愛の道であり、真の愛の道を通らずしては神様の前に出ていくことはできません。神様は真の愛を通じて、聞いて、食べて、触ってみたいのです。人間も神様から口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。

 神様の愛は、「ため」に生きる愛、ひたすら「ため」に生きようとする愛です。このような愛、真の愛があれば、回るようになっています。宇宙はどこから始まったのでしょうか。回るところから始まりました。存在するすべてのものは回るようになっているのが本質です。それではどのようなものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えるということ、永遠に愛を中心として、永遠に与えようとする愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力が一つになって、よくあげようとするので拡大する以外にありません。

 真の愛の起源であられる神様を父母として、人間は息子、娘の位置に立たせられました。父母は子女のための愛の最高の主人です。父子の関係が従的な垂直関係であるのに比べ、夫婦関係は横的な水平関係です。したがって、父子の関係と夫婦の関係が互いに直角(90度)をなし、ここに前後関係である兄弟の関係が合わさることによって、愛の関係は球形を成します。それで、愛で構成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。

 人類歴史において、真の愛を完成すれば、政治、経済、文化的問題はもちろん、すべての紛争と葛藤問題もきれいに解決できるはずです。今日世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ根本的な解決が可能なのです。

 人間が神様に会うことを望むように、神様も真なる人間に会いたがっていらっしゃいます。ところで、人間のうちで、男性と女性のどちら側に先に会いたいといえば、互いに不平を言うことでしょう。ゆえに、神様は、愛を掲げざるを得ません。愛のみ掲げれば男性と女性が共に会うことができ、共に触ることができ、共に分け合うことができるためです。世の中で、貴いものは互いに争って自分の物にしようとしますが、愛というものは、二人の人がお互いに一つとなり、相手のために所有しようとするので、争いがありません。 愛は誰もが好むだけでなく、愛のみが欲望を均等に充足させることができるので、この原則を置いてこそ、神様の救援摂理も可能なのです。

 真の愛を探さなければなりません。真の愛にはどこに行けば出会えるのでしょうか。真の愛は昼夜なく不変で永遠なものです。自分一人だけのためのものが真の愛になることはできません。真の愛が私個人だけの所有にはなり得ません。真の愛は万民のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるのです。

 真の愛とは、根をどこに置いて言う言葉でしょうか。神様がいくら全知全能なる方でも、その根を神様に置いていません。全知全能なる神様は真の愛の主人公なのに、愛の根を神様に置こうとしません。愛の対象になれる人に根を植えようと考えます。

 愛はどこから始まったのでしょうか。神様から始まりました。神様が愛の理想相対を必要とされてこの世を造ったので、天地創造も愛を起源としています。

 心の力の源泉は愛です。ですから心が授け受けて生じる爆発的な力を神様に連結しさえすれば、それは何百倍、何千倍も統一できるでしょう。そして世界万民が待ち焦がれた願いを成就できるでしょうし、永遠に共に生きることができると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。

 人間が神様と一体を成す時、その心情と感情は、無限な体恤の境地と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、神様の創造目的である理想世界の実現も、ここから出発するのです。

 人間が神霊的境地に入れば、小さな砂粒一つにも宇宙の理が入っていて、一つの原子にも無窮無尽な宇宙の調和が宿っていることが分かります。存在するすべてのものは、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子に至るまで無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在しています。ですから存在するすべてのものは必ず神様の愛のみ手を経ており、必ず神様との心情的な関係のもとに存在しています。喜びは、ある目的を成し遂げた時に感じます。造った万物に神様の目的意識が内在されているので、創造された万物によって神様は喜びを感じるのです。

 神様の愛の園に進んでいくためには、どれほど強い愛でなければならないのでしょうか。今日、人間世界の間違った愛は、天使長級以下の愛です。堕落したこの世の愛は、サタンが侵入した愛です。このような愛の園で生まれて生きながら、愛ゆえに死ぬか生きるかと大変です。この愛は、秩序もなく方向もない渦巻きです。渦巻きには、汚いものだけが集まります。しかし人間が神様の愛と関係を結べば、その愛の方向を教えてあげなくても自然についていきます。

 神様を中心とした愛、すなわち創造の法度による愛が決定された場で、初めて神様の理想が出発します。

 愛をなぜ好むのでしょうか。好まざるを得ないようになっているからです。お父さん、お母さんを完全に一つに結び付けるのは、愛のロープです。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆びて切れてしまいますが、愛のロープは永遠のものです。そして父母と子の間は、法でもお金でも結ぶことができません。ただ愛によってのみ結ぶことができます。

 人間の完成は、知識や権力、あるいはお金によって成されるのではなく、愛によって成されるのです。その愛は俗化された愛ではなく、本来の愛であり、その愛によってすべてのものが完成します。