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第二章 涙で満たした心の川 : ぐつぐつと煮えたぎる火の玉のように : |
京城商工実務学校を終え、1941年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れ上がっていました。殖民統治下で呻吟する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぼろぼろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛哭する山河に向かって、私は約束しました。
「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ。必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってきてやるからな」
釜山港から関釜連絡船に乗り込んだのは4月1日の午前2時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。
東京に到着した私は、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打ち立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。
目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通ずる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいと言う数学に長けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら10年かかるところを3年もせずにやり遂げてしまうのも、大きな頭のおかげです。
日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。
下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の3種類の『聖書』を並べておき、3つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。
入学と同時に参加した韓国人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田大学高等工学校の建築学科に入学した厳徳紋は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。
東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦争に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうするかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九先生の大韓民国臨時政府(金九は当時主席)と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。
早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたかも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。