第七章 韓国の未来、世界の未来 : すべてのものは天からの借り物 :

 私に対して世の中では、世界的な金持ちだとか億万長者だとか言いますが、それはよく知らずに言う話です。私は生涯、一生懸命に働いてきましたが、自分のために建てた家は一軒もない人です。私の妻や子供たちのためにためた財産もありません。成人なら誰でも持っている一本の印鑑さえありません。
 人が眠るときに眠らず、人が食べるときに食べず、人が休むときに休まずに働いた、その代価は何かと尋ねたいでしょう。しかし、私は金持ちになることを願って働いたのではありません。お金は私にとって何の意味もありません。人類のために、貧困で死んでいく隣人のために使われないお金は、一枚の紙切れにすぎません。一生懸命に働いて稼いだお金は、世界を愛し、世界のために働くところに使われてこそ、相応しいのです。
 私は、宣教師を外国に送り出しながらも、多くのものは与えませんでした。それでも、私たちの宣教師は、世界のどこに行っても上手に生きていきます。生きていくには、ごく基本的な生活用品だけが必要です。寝袋一つだけあれば、十分に生きていくことができます。大切なことは、何を持っているかではなく、どのように生きるかです。物質の豊かさだけが幸福な人生の条件ではありません。悲しいことに、現代の韓国語では、「チャル・サンダ」(良く生きる)という言葉が、どういうわけか物質的な豊かさばかりを意味する言葉に変質してしまいました。本来、幸福な人生とは良く生きることであり、それは意味のある人生を生きるということです。
 私は、礼拝や特別な行事がある日でなければ、ネクタイをしません。格式を備えた正装もあまり着ません。家にいるときは、普通のセーター姿です。たまにこのようなことを考えます。西洋社会でネクタイにかかるお金がどのくらいになるだろうか。ネクタイに付けるピンやワイシャツ、カフスボタンはどれほど高いだろうか。世の中の人たちが、皆ネクタイをしないでそのお金を飢えている隣人のために使えば、世の中はもう少し暮らしやすい所になるでしょう。高いことだけが問題ではありません。いま外で火事が起きたとします。セーター姿の私とネクタイを結んだ人では、どちらが先に飛び出していくことができるでしょうか。私はいつでも飛び出していく準備ができている人です。
 私は、毎日入浴することも賛成しません。入浴は3日に1度で十分です。靴下も毎日洗って履くことはしません。夜になると、靴下を脱いでズボンの後ろポケットに入れておきます。翌日に履くためです。ホテルに行けば、浴室に掛けられているタオルの中で、一番小さいものを1枚だけ使って出てきます。小便は3回した後にトイレの水を流し、トイレの紙は1枚を3つにたたんで使います。このような私を見て、原始人とか野蛮人と言ってもかまいません。ご飯を食べるのもそうです。私は、おかずを3種類以上置いて食べません。私の前にご馳走が並べられ、あらゆるデザートが置かれていても、手が出ません。ご飯も山盛りにして食べません。器の5分の3くらいがちょうどよいのです。
 私が韓国で最も好んで履く靴は、大型ディスカウントショップで49000ウォン(約4000円)で買ったものです。毎日穿くズボンは、買ってから5年を優に超えたものです。アメリカで私が最も好んで食べる食事はマクドナルドです。金持ちはジャンクフードと言ってあまり食べません。私は2つの理由からマクドナルドを好みます。値段が安くて、時間が節約できるからです。子供たちを連れて外食するときも、マクドナルドに行きます。私がマクドナルドによく行くとどうして分かったのか、マクドナルドの会長が毎年年賀状を送ってくるのです。
 「お金を大切に使い、何でも節約しなさい」
 いつも食口たちに強調することです。アイスクリームや飲料水のようなのも、買って食べずに水を飲みなさいと言います。そうやって節約して自分だけがお金持ちになりなさいという意味ではありません。国を助けるために、人類を助けるために大切にするのです。どのみち、この世を旅立つときは何も持っていくことができません。私たちは皆、その事実をよく知っています。それなのに、何をそのように握り締めようとするのか理解できません。私は、生涯に手にしたものをすべて差し出し、身軽にこの世を旅立つでしょう。天の国に行けば金銀財宝があふれるほど散らばっているのに、地上から何を持っていくのでしょう。私たちが暮らしている世界より、もっと良い世界に行くと考えれば、地上のものに執着する理由がありません。
 私が生涯、好んで歌う歌があります。誰もが皆知っている流行歌ですが、その歌を歌うたびに、故郷の家の野原に寝転んでいるように心が平安になって、涙がしきりに出てきます。

 白金の宝石で飾られた王冠をもらっても
 土臭く、汗まみれの麻布の上着に勝るものはない
 純情の泉が湧き出る私の若い胸の中では
 好きなように、柳の枝を折って笛を吹き
 私の歌の調べに合わせて雀も鳴く

 世の中を買えるほどの黄金をもらっても
 麦畑を耕してくれるまだら牛に勝るものはない
 希望の芽が吹く私の若い胸の中では
 好きなように兎たちと話をし、
 私の歌の調べに合わせて歳月も過ぎていく
 (孫露源作詞、白映湖作曲「心の自由大地」)

 幸福は常に私たちを待っています。それでも私たちが幸福を探し出すことができない理由は、欲望が行く道を阻むからです。欲に眩んだ目は前を見ることができません。たったいま地面に落ちた黄金のかけらを拾おうとして、その先にある大きな黄金の山を見ることができず、ポケットに入れることにあくせくして、ポケットが破れたことも分かりません。私は今も興南監獄で生活していた時のことを忘れません。いくら卑賤な所でも、興南監獄よりは楽で恵まれています。すべてのものは公的なものであり、天のものです。私たちは、ただ管理しているにすぎません。