第五章 真の家庭が真の人間を完成する : 私の妻、韓鶴子 :

 私が妻に初めて会ったとき、、妻は小学校を卒業したばかりの13歳の少女でした。教会に来るときも帰るときも、いつも同じ道を通り、一度も大声を出したことのないおとなしい少女でした。ある日、信徒の洪順愛女史がその娘と一緒に挨拶に来ました。
 「何という名前か?」と聞くと、「はい、韓鶴子といいます」と、はきはきと答えました。ところがその瞬間、私は思わず「韓鶴子が大韓民国に生まれたのだなあ!」と3度も繰り返し、「神様! 韓鶴子という立派な女性を韓国に送ってくださったのですね。ありがとうございます」と祈りました。それから彼女を見つめて言いました。
 「韓鶴子、これからたくさん犠牲にならなければならないのだなあ」
 彼女を見た瞬間、これらすべての言葉が自然と飛び出してきました。後日、洪順愛女史は、その日の私がなぜ自分の娘を見て3度も同じことを繰り返したのか、本当に不思議に思ったといいます。妻は、その日の短い出会いをよく覚えていました。私が独り言のように漏らした言葉も、すべて忘れずに胸の中にしまっていました。自分の将来のことで大きな啓示を受けたような気がして、忘れられなかったそうです。
 妻の母、洪順愛女史は、篤実な長老教会の家系に生まれ、キリスト教信仰に育まれて成長しました。故郷は私と同じ定州でしたが、実際に暮らしたのは安州(平安南道)です。朝鮮戦争のときに南に下ってきたそうです。私たちの教会の信徒になってからは、春川(江原道)で献身的な信仰生活を送り、娘をとても厳しく育てました。妻が通った看護専門学校はカトリックが運営する学校でした。規律が非常に厳格で、まるで修道女のような生活だったそうです。おとなしい性格の妻は、真の信仰を懸命に求め歩いた母の元で、家と学校を行き来しながら大きくなりました。学校を除けば、私たちの教会に来ることが彼女にとって唯一の外出でした。
 当時、40歳を目前にした私は、結婚する時が近づいていると直感していました。神様が「時が来たので結婚しなさい」と命じれば、そのとおりに従うだけでした。1959年10月から、池承道ハルモニ(お婆さん)が中心となって、新婦も決まっていないうちから私の婚約準備が始まりました。誰になるか分からない妻のために7年間も祈禱していたある信徒は、「先生、私は夢の中で韓鶴子嬢が先生の新婦になるのを見ました」と言いました。池承道ハルモニは、「ああ、これは何の夢でしょう。夢の中に数十羽の鶴が現れて、手で追い払ってもしきりに飛んできて、先生を白く覆うのです。これは何かの兆候でしょうか」と夢の話をしました。
 すると今度は妻の夢に私が現れて、「その日が近づいてきたので準備しなさい」と語ったというのです。夢の中で妻は、「今まで私の天の御旨どおりに生きてきました。これからも神様の御旨が何であれ、神様の僕として従います」と従順に答えたそうです。
 妻が私の夢を見た数日後、私は洪順愛女史に娘を連れて来るように言いました。13歳の少女の時に挨拶を受けて以来、公式的には初めて会う場でした。私は妻に絵を描いてみなさいと言いました。彼女は躊躇なく鉛筆をさっと動かし、描いたものを私の前に広げてみせました。とても良く描けていると思って妻の顔を見ると、恥ずかしがるその姿が本当に美しく、絵に負けないくらい心も立派でした。その日、私は妻にとても多くの質問をしました。そのたびに妻は、戸惑うこともなくはきはきと答えました。
 数日後、私は再び妻を呼びました。呼ばれた理由が分からないまま私の前に立った彼女に、「あすの朝、結婚式をする」と言うと、「そうですか」と言って、それ以上何も聞かず、反対もしませんでした。反対というものを知らない女性のようでした。そのような純粋でおとなしかったのですが、神の御旨に対しては固く決心した人でした。
 1960年3月27日、私たちは約婚し、それから半月も経たない4月21日に結婚式を挙げました。私は紗帽を、妻はチョクトゥリを被りました(紗帽とチョクトゥリは伝統的な正装用の帽子と冠)。23歳も年下の新婦のきりっと結んだ口元と清楚な顔が端正に見えました。
 「私との結婚が、普通の結婚とは違うことをよく知っているだろう。私たちが夫婦の因縁を結んだのは、神様から受けた使命を果たし、真の父母になるためであって、世の中の人たちのように男女の間の幸福のためではない。神様は真の家庭を通して天国をこの世に広げたいと願われている。私たちはこれから、天国の門を開く真の父母になるための厳しい道を行かなければならない。歴史が始まってからこの方、その道を行った者は誰もいないから、私たちの行くべき道がいかなるものか、私にも分からない。したがって、これから7年間、あなたにとってはとても耐えがたいことがたくさんあるだろう。私たちの行く道は他の人とは全く違うということを片時も忘れず、たとえ小さなことでも私と相談した後に行い、私が言うことにはすべて従順に従ってこなければならない」
 「すでに覚悟しておりますので、何も心配なさらないでください」
 妻の表情には固い意志が見えました。妻は、結婚した翌日から耐えがたい日々を送らなければなりませんでした。最初に訪れた困難は、実家の母親に会えないことでした。妻の家系は3代続けて母一人で子供を育ててきたので、母親と娘の関係がひときわ親密だったのですが、私は妻の母に「娘に会いに訪ねてこないでください。これから3年間は私の前にも姿を見せないでください」と何度も繰り返し伝えました。妻には、母親だけでなく、親戚との関係もすべて断つように言いました。教会の母である人が、親戚とひそひそ話をしたり、私的なことに気持ちが奪われたりしたら、自分の責任を果たすことができないと考えたからです。妻の心の中には、ひとえに天だけがいなければならなかったのです。
 私は3年間、妻を信徒の家に間借りさせました。また、教会には1日に1度しか来られないようにしました。それも、夜に来て、来るときは正門から入っても出るときは裏門から静かに出て行くように言いました。その上、私は夜通し礼拝をしたり祈禱を捧げたりするので、頻繁に妻の元に行くことができません。その間も、私をめぐるおかしな噂は途切れなく続いたので、年若い妻が耐え抜くのは容易なことではありませんでした。
 結婚した頃は、すでに全国に120ヵ所以上の教会の基礎を築いて、かなり有名になっている時でした。教会の中でさえ私の結婚をめぐってさまざまな声があり、妻をねたみ、怨んで、あらゆることを言って騒ぎ立てました。
 しかし、私が妻を間借りさせただけでなく、どこへ行くにも妻の代わりにお婆さんたちを連れて回るので、妻に対してああだこうだと言っていた声は次第に消えていきました。最初の娘が生まれた頃、産後の関節痛にかかって、暖房もない部屋でぶるぶると震えていても、夫の私が顔も出さないので、どうしてそんなに冷たい仕打ちができるのかと、かえって妻をかばって心配する人が増えました。
 「先生もあんまりだ。結婚したのなら夫人と一緒に暮らすべきなのに、あれは何だ。顔を見る暇もないとは」
 こうして、妻の悪口を言っていた人たちがかえって妻に同情し、一人、二人と妻の味方になっていきました。
 妻は若くして本当にたくさんの訓練を受けました。私と一緒に暮らす間、一時も自由にできませんでした。いつも神経を尖らせて、薄い氷の上を歩くように、「きょうは何事もないだろうか、あすは何事もないだろうか」とやきもきしながら暮らさなければなりませんでした。一言言葉を間違えただけで私から咎められることもしばしばでした。うれしくて「うれしい」と言っても難癖を付けられ、私の後ろをちょろちょろ付いてきては小言を言われました。真の母になるためには仕方のないことでしたが、妻の心の中の悲しみはさぞや大きかったことでしょう。
 私はただ一言投げかけるだけですが、妻は私の一言一言に合わせて生きなければなりませんでした。その苦労たるや言葉で言い表せないものがあったにちがいありません。そうやってお互いに合わせていくのに7年もの期間が必要でした。結婚生活で最も大切なことは信仰で一つになることだという事実を、その時に再び悟りました。