第四章 私たちの舞台が世界である理由 : 夢にも忘れられない1976年、ワシントン記念塔 :

 1976年10月、ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに「統一神学大学院(UTS)」を設立しました。教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を超えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解し始めました。こして、多くの有能な若者が私たちの学校で修士課程を終えて、ハーバード大学やエール大学の博士課程に進学していきました。彼らは今日、世界の宗教界を導く人材になっています。
 アメリカ議会は、1974年、75年に私を招請しました。私は上下両院議員の前で「アメリカを中心とした神の御旨」という主題で講演を行いました。
 「アメリカは神の祝福によって誕生した国です。しかし、その祝福は、ただアメリカ人のためだけのものではありません。それは、アメリカを通して下された世界のための祝福です。アメリカは祝福の原理を悟り、全世界の人類を救うために自らを犠牲にしなければなりません。そのためには、建国精神に立ち返る一大覚醒運動を起こさなければなりません。数十に分かれたキリスト教を統合し、あらゆる宗教を一つにまとめて、世界文明の歴史に新たな1ページを加えるべきです」
 私は、道行く若者に向かって訴えたのと同じことを、アメリカ議員の前で声高に訴えました。その時点で、アメリカ議会から招請を受けて講演した外国の宗教指導者は私しかいませんでした。続けて二度も議会の招請を受けると、韓国から来た「サン・ミョン・ムーン(Sun Myung Moon)」とは一体誰のかと、関心を持つ人がとても増えました。
 その翌年の6月1日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムで、アメリカ建国200周年を祝う祭典を開きました。当時のアメリカは、建国200周年を祝っていられるほど平穏無事とはいえない状況でした。共産主義の脅威に苦しんでいたのであり、青少年の多くは、麻薬や堕胎など神の願いとはかけ離れた人生を送っていました。私はアメリカ、中でもニューヨークが大きな病にかかっていると考えました。そこで、病に臥したニューヨークの心臓にメスを入れる気持ちで祝典に臨みました。
 祝典当日は驚くほどの雨が降り注ぎましたが、開始直前、会場一帯は晴れ、悪天候の苦難を劇的に超えて、大会は成功裏に行われました。まだ雨が降っている時のことです。バンドが「ユー・アー・マイ・サンシャイン(You Are My Sunshine)」を演奏すると、ヤンキー・スタジアムに集まった人々は、全員で声を合わせて一斉に歌い始めました。雨に打たれながら太陽の光の歌を歌うので、口では歌を歌いましたが、目からは涙が出ました。雨水と涙が入り混じる瞬間でした。
 私は学校に通っていたとき、ボクシングをやっていました。ボクシングでは、いくらジャブを何回入れても、体力のある選手はびくともしません。しかし、アッパーカットを一発大きく入れれば、どんなに体力のある選手でもぐらつきます。私は、アメリカという大国にアッパーカットを一発大きく入れるつもりでした。今までに成功したどの集会よりもはるかに大きな規模の集会を持ち、アメリカ社会に「サン・ミョン・ムーン」の名前をしっかりと刻み付ける必要があると考えました。
 ワシントンDCはアメリカの首都です。アメリカ議会議事堂とリンカーン記念堂を直線で結んだほぼ真ん中にワシントン・モニュメントという記念塔があります。ちょうど削って尖らせた鉛筆を垂直に立てたのと同じ形をしていまうす(高さ169メートル)。その記念塔の下には、リンカーン記念堂まで続く幅広い芝生広場があって、そこはアメリカの心臓部といってよい場所です。私は、そこで大規模な集会を開く計画を立てました。
 ワシントン記念塔前の広場でイベントをするためには、アメリカ政府の許可を得なければならず、アメリカ公園警察からも許可を取らなければなりません。しかし、アメリカ政府は、私のことをあまり好ましく思っていませんでした。アメリカ政府が何度も申請書を突き返してきたため、大会当日の40日前になってようやく許可を得ることができました。
 信徒たちも、あまりに大きな冒険だとして、誰もが引き留めようとしました。ワシントン記念塔前広場は、都心の真ん中に位置し、がらんとした、辺り一帯に何もない公園です。それも、木が生い茂って垣根になっている所ではなく、ただの青い芝生の広場です。ですから、もし人が集まらなければ、四方八方からその閑散とした様子があからさまになってしまいます。広い芝生の広場をぎっしりいっぱいにしようとすれば、数十万の人波が押し寄せてこなければならないのですが、果たしてそれが可能かということです。その時まで、ワシントン記念塔で大きな行事を行った人物は二人しかいませんでした。公民権運動の一環で「ワシントン大行進」を行ったマーティン・ルーサー・キング牧師と、大規模な宗教集会を開いたビリー・グラハム牧師です。そのような場所で大会を開こうと、私が挑戦状を突きつけたのです。
 私はその日の大会のために、休む間もなく祈禱しました。原稿を4回も書き直しました。大会の一週間前になっても、その日にどんな説教をすべきか心が定まっていませんでした。原稿を書き終えたのは、大会のわずか3日前です。本来、私は説教の前に原稿を用意することはしません。しかし、その時はそうしてみようと心が動かされました。どういう訳なのかはっきりしませんが、とても重要な大会になることは明白でした。
 ついに1976年9月18日、夢にも忘れることができないその日が来ました。朝早くから人々がひっきりなしにワシントン記念塔に押し寄せてきました。何と30万人という大勢の人の群れです。それほどの群衆が一体どこから押し寄せてきたのか、全く見当もつかないことでした。彼らの髪の毛の色や顔の色は皆、色とりどりでした。神様がこの地上に送り出されたすべて人種が集まったかのようでした。それ以上何を言う必要もない、本当に世界的な大会になりました。
 私は30万人の群衆の前で、「退廃的なアメリカの青年たちを危機から救い出し、希望の若者にするためにアメリカに来た」と堂々と宣布しました。私が一言一言語るたびに、群衆の中で歓呼の声が上がりました。東洋から来たレバレンド・ムーンが伝える教えは、混沌の時代を生きていた当時のアメリカの青年たちにとって、新鮮な衝撃でした。彼らは、私が伝える純潔と真の家庭のメッセージを歓迎しました。人々の熱狂的な反応に、私の体からも脂汗が流れてきました。
 その年の暮れ、『ニューズウィーク』誌は私を「1976年今年の人物」に選びました。しかし、また一方では、私を警戒し、恐れる人たちが増えました。彼らにとって私は、東洋から来た不思議な魔術師にすぎず、彼らが信じて付いていくような白人ではありませんでした。また、自分たちがよく聞く既成キリスト教会の教えと少々異なった話をするということが、彼らをとても不安にさせました。その上、白人の若者たちが「目が魚のように細長いアジア人」を尊敬し、彼に付いていくのを絶対に容認できませんでした。彼らは、私が純真な白人の若者を洗脳していると悪い噂を流し、私に歓声を送る群れの背後で、私に反対する勢力を集めました。またしても新たな危機が身近に迫ってきたのです。しかし、臆することはありませんでした。私は明らかに正しいことをしていたからです。
 アメリカは人種差別と宗教差別が激しい国です。アメリカンドリームに憧れて、世界中からあらゆる人種が集まってくる自由と平等の国として知られていますが、実際は、人種差別と宗教差別によって激しい葛藤が生じている国です。それは、退廃と堕落、物質主義のような1970年代の豊かさの中に現れた社会の病弊よりも、はるかに深くアメリカの歴史に根ざした、簡単には治すことのできない持病のようなものでした。
 その頃、宗教間の融和を導くために、私はよく黒人の教会を訪ねていったのものです。黒人のリーダーの中には、マーティン・ルーサー・キング牧師に倣って、人種差別をなくし、神の平和世界を築こうと努力する隠れた人材がたくさんいました。
 彼らは、法的に人種差別が禁止される前、数百年間続いた黒人奴隷市場の写真を教会の地下室に展示していました。生きている黒人を木に吊して火で焼く場面、奴隷として売られてきた黒人たちを鶏のように並べてその口を開ける場面、男女の黒人を裸にして奴隷を選ぶ場面、泣き喚く子供を母親の懐から引き離す場面など、およそ人間の心を持っていたならば到底できないような蛮行を犯す姿がそのまま写し出されていました。
 「見ていてください。これから30年のうちに、黒人と白人の混血家庭から生まれた子供がアメリカの大統領になるでしょう」
 1975年10月24日、シカゴの集会で私はそのように語り、その日の予言は、今やアメリカで現実のものとなりました。シカゴで誕生したオバマが大統領になったのです。しかし、私の予言は成就したのではありません。宗教と教派間の葛藤をなくすために大勢の人の血と汗が流されたからこそ、今、一輪の花が咲いたのです。