第四章 私たちの舞台が世界である理由 : 決死の覚悟で行くべき道を行く :

 ソウルの西大門刑務所から釈放された1955年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今はまだ大勢が共に集って礼拝を捧げる大きな教会もありませんでしたが、遠い未来のことを準備しなければならないと思ったのです。
 世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春(日本名は西川勝)です。
 1958年、甲寺(忠清南道の鶏龍山にある)の裏山に崔奉春を呼んで、私は言いました。
 「おまえは、今すぐ玄界灘を渡っていかなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」
 彼は少しもためらわずに「はい!」と答え、「召されて出で立つこの身はゆくぞ。……」という統一教会の聖歌を歌いながら、意気揚々と山を下りていきました。日本に行って生活はどうしたらいいのか、宣教はどうやって始めたらいいかと尋ねることもしませんでした。崔奉春はそのように豪胆な男でした。
 当時は日本とまだ国交がなかったので、密航するしかありませんでした。密航は国法を破ることでしたが、日本宣教は必ずやらなければならないことでした。したがって、何があろうと困難はすべて耐え忍ぶしかなかったのです。
 崔奉春は決死の覚悟で密航船に乗り込みました。私は、彼が無事に海を渡ったと知らせてくるまで、他のことは一切せず、小さな部屋に籠もって座り、ひたすら祈り続けました。何も食べず、寝ることもしませんでした。彼を送り出すのに必要な資金150万圜は、借金をして充てました。満足にご飯を食べられない信徒が大勢いる中で、大金を借りてでも彼を送ったのは、それだけ日本宣教が急を要することだったからです。
 しかし、崔奉春は、日本に到着するとすぐに逮捕されてしまいました。広島と山口の刑務所に収監され、韓国に強制送還される日を待つ身となったのです。約9ヵ月間の刑務所生活の後、思い詰めた彼は、韓国に帰るくらいならむしろ死を選ぼうと腹を決めて、断食を始めました。食を断つと熱が出ました。警察は治療が必要と判断して本国送還を延期し、入院させたところ、彼はその機に乗じて病院から逃げ出しました。
 こうして生きるか死ぬかの苦労を1年半ほど続けた末に、崔奉春が日本に教会を創立したのは1959年10月のことでした。その時代、韓国と日本は正式に国交を結んでいないばかりか、圧制政治のつらい記憶ゆえに、誰もが日本との修好に激しく反対していました。そのような怨讐(深い怨みのあるかたき、敵)の国日本に、密航させてまで宣教師を送ったのは、日本を救うためであると同時に、大韓民国の未来を開くためでもありました。日本を拒否して関係を断絶するよりも、日本人を教化した後、私たちが主体となって彼らを味方につけなければならないと考えました。何も持たない韓国としては、日本の為政者と通じる道を開いて日本を背景にしなければならず、また何としてもアメリカと連結されてこそ、未来の韓国の生存の道が開かれると見通したのです。崔奉春の犠牲によって宣教師の派遣に成功した後、日本教会は久保木修己という優れた青年指導者を得て、彼と彼に付き従う若者たちによって、しっかりと根を下ろしました。
 日本に宣教師を派遣した翌年(1959年)、今度はアメリカに宣教師を送りました。この時は密航ではなく、堂々とパスポートとビザの発給を受けて送りました。西大門刑務所を出てから、私の収監に加担した自由党の長官らと接触し、パスポートを得ることができました。私に反対した自由党を逆に利用したのです。当時、アメリカはあまりにも遠い国でした。私がその遠いアメリカに宣教師を送ると言うと、まず韓国でもっと教会を大きくして、それから送っても遅くはないと誰もが反対しました。しかし、「大国アメリカの危機を早く収拾しなければ韓国は滅びる」と言って、私は信徒たちを説得しました。1959年1月、梨花女子大を追われた金永雲宣教師が最初に派遣され、その年の9月、金相哲宣教師がアメリカに到着して、全世界に向けた宣教史の第一歩を踏み出しました。