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第三章 世界で最も中傷を浴びた人 : 大切なのは真実の心 : |
3ヵ月ぶりに釈放されて出てきた私は、神から愛され、生命を与えられている喜びをいま一度噛みしめました。私は神の愛と生命に負債を負った者だということです。その負債を返すために、一からやり直すことを決め、新しい教会の場所を探すことにしました。しかし、「神様、私たちの教会を建ててください」とは、私は祈りませんでした。小さくて何の値打ちもない建物だとしても、それまで不便だとか恥ずかしいとか思ったことはありません。祈る場所があればそれだけで感謝であり、広くて静かな場所までは望みませんでした。
信徒たちが集まって礼拝を捧げる家はどうしても必要です。そこで200万ファン(ファンは1953年から1962年にかけて使われた韓国の貨幣単位)の借金をして、青坡洞(現在のソウル特別市龍山区内)の丘にあった、すっかり荒れ果てた日本式の家屋を買いました。非常に小さな家で、真っ暗な洞穴のような一本道をかなり歩かないと辿り着かない路地裏にありました。その上、それまでに何があったのか、柱といわず壁といわず真っ黒に汚れていました。建物をきれいにしようと、教会の青年たちと一緒に、洗濯用の苛性ソーダを溶いて3日かかって拭いたので、黒い汚れはほとんど落ちました。
青坡洞の教会に移っていった後、私はほとんど眠りませんでした。奥の間に身をかがめて座り、明け方の3時か4時になるまでお祈りをして、服を着たまましばらく背中を丸めて寝ると、5時にはもう起きる生活を7年間続けました。毎日1、2時間しか寝なくても、うとうとすることもなく、明け方の明星のように目を輝かせて、疲れを知りませんでした。
やろうと思うことが心の中にいっぱいあって、食事の時間も削りました。いちいちお膳を準備しないで、部屋の床にご飯を置いて、しゃがんだままで食べました。「誠を投入せよ! 眠けの中でも投入せよ! へとへとになるまで投入せよ! おなかが空いても投入せよ!」と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔く心情で祈りました。そして、その種は大きく育って必ず穫り入れられるだろうし、韓国で獲り入れが難しければ、間違いなく世界で穫り入れられるだろうと考えました。
1年も経つと信徒数は400人を超えました。400人の信徒の名前を一人一人呼び上げて祈っていると、名前を呼ぶ前から、彼らの顔が頭の中をしきりに行き交いました。彼らの顔が泣いたり笑ったりします。その人がどんな状態にあるのか、病気なのか元気なのかを祈りの中で知るようになりました。
一人一人の名前をずっと呼んでいるうちに、「きょうはこの人が教会に来る」と思えば、その人は連絡もなしに教会に来ました。苦しむ姿が浮かんだ人を訪ねて、「どこどこが痛くないか」と聞いてみると、「そうだ」と答えます。「先生は、私が苦しんでいるとどうしてお分かりになったのですか。本当に不思議です」と言って彼らが驚くたびに、私はにっこり笑いました。
祝福式(結婚式)の時のことです。祝福式を前にした新郎新婦に、私は必ず純潔であるかと尋ねます。その日も新郎の候補者に尋ねました。「本当か?」と聞いてみると、彼が大きな声で「はい!」と答えました。そこで再び尋ねました。「本当か?」。彼はまた「はい!」と言いました。私が3回目に尋ねた時も同じ返事でした。私は彼を真っすぐに睨みつけて、恐ろしい声で問い詰めました。
「おまえ、江原道の華川で軍隊生活をしただろう?」
新郎の候補者がすっかり怯えた声で「はい」と言いました。
「その時、休暇をもらってソウルに来る途中、旅館に入っただろう? その日、赤いチマを着た若い女と一線を越えたじゃないか。はっきりと分かっているのに、なぜ嘘をつくのか」
私は怒って彼を追い出しました。心の眼を開けていれば、何を隠していても全部分かるようになっています。
神のみ言よりも神通力に惹かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません。人間の罪は、必ず贖罪を通して復帰(罪のない元の状態に戻ること)しなければならないのです。霊的な能力に期待しては絶対に駄目です。教会が定着してくると、私はそれ以上、心の眼で見たことを信徒に話さないようにしました。
信徒の数は次第に増えましたが、数十人だろうと数百人だろうと、私は一人だと思って向き合いました。どんなお婆さんでも、どんな青年でも、その人一人だけを相手とするように、精いっぱいの真心を込めて話を聞きました。「韓国で私の話を一番よく聞いてくれる人は文先生だ」という言葉を、信徒全員から聞きました。お婆さんたちは、自分がどんなふうに嫁に行くようになったかという話から、年上の夫のどこが悪いかということまで、何から何まで打ち明けてくれました。
私は本当に人の話を聞くのが好きです。誰であろうと自分の話を始めると、時の経つのも忘れて聞くようになります。10時間、20時間と拒まずに聞きます。話そうとする人の心は緊迫していて、自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。そうであるならば、私たちは真心を込めて聞かなければなりません。それがその人の生命を愛する道であるし、私が負った生命の負債を返す道でもあります。生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。嘘偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、私自身の真実の心の内も真摯に話してあげました。そして、涙を流してお祈りしました。
涙を流して夜通し祈ったので、板の間が乾く日がありませんでした。板の間は私の血と汗と涙でいつも濡れていました。後日、アメリカに留まっている間に、青坡洞の教会を端正に造り直すという計画を聞いて、すぐに工事を中止せよと電報を打ったことがあります。青坡洞教会は私個人の歴史を刻んだ場所でもありますが、私たちの教会の歴史をそのまま証言する場所でもあります。いくら立派に造り直しても、歴史が消えてしまえば何の使い道があるでしょうか。重要なのは端正な姿形ではありません。その中に宿った意味です。不足であれば不足なりに、そこに伝統があり、光があり、価値があるのです。伝統を尊重することを知らない民族は滅びてしまいます。
青坡洞教会の柱には、「いつ、どういうことのために、その柱をつかんで涙を流したのか」という歴史がそのまま刻まれています。つかんで涙を流した柱を見れば、込み上げてくるものがあるし、曲がった扉を見ても、当時の思いが蘇ります。ところで、今はもう昔の板の間が全部なくなりました。夜通し俯して祈り、血涙を流した板の間がなくなったので、その涙の跡もまたなくなってしましました。私に必要なのはそのような痛みの追憶です。模様や外観は古くても、そんなことは関係ありません。歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青坡洞の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります。
私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるあるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。
今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。私は公の席に出る前には、必ず10時間以上お祈りをして真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。
教会を始めた頃、私は作業着に使っていた黒い染みの付いた米軍兵士のジャンパーを着て、壇上に立って汗と涙にまみれて説教しました。痛哭しない日がありませんでした。涙が心の中に充満して外に流れ出ました。気が遠くなり、息が絶えてしまうような日々でした。衣服は汗にまみれ、頭からは汗の粒が流れ落ちてきました。
青坡洞教会の頃は誰もが苦労しましたが、特に私が初代協会長として立てた劉孝元は実に多くの苦労をしました。片足が不自由で、しかも肺が痛くて体がきついのに、1日18時間の原理講義(解明された「原理」の教えを講義形式で説くこと)を3年8ヵ月も続けました。食べる物も芳しくなく、1日に麦ご飯2杯で耐え忍び、おかずは生キムチを漬けて1晩寝かして食べるのがやっとでした。彼の好物といえばアミの塩辛です。部屋の一方の隅にアミの塩辛を置いておき、それを1つかみずつ取って食べて、困難な日々を辛抱しました。おなかが空いて、疲れ果てて、板の間に元気なく横たわっていた劉孝元を見ると、本当に胸が痛かったのです。サザエの塩辛でも漬けてあげたい気持ちでした。滝のようにあふれ出す私の話を、痛む体でよく整理して書き留めた彼を思えば、今も心が痛みます。
多くの信徒の犠牲を肥やしにして教会はどんどん育ちました。中高生で構成された成和学生会は、母親が包んでくれた弁当を持ってきて、伝道師たちを支えました。中高生が自分たちで順番を決めて、交代で弁当を捧げて、伝道師の食事を用意しました。中高生のご飯を食べなければならない伝道師たちは、その子らが決まった食事を欠かして、おなかが空くことを思いながら、ご飯を口に入れては涙を流すのでした。ご飯よりも誠が大切なので、誰もが「死んでも御旨をなそう」という切迫した心情で頑張りました。
このように、私たちの教会は、つらくても全国各地に伝道に行きました。陰険で腹黒い噂がたっぷりと出回っていて、どこへ行っても「統一教会」という言葉すら思うように口に出せずに、悲しい思いを味わいます。近所の掃除をしたり、人手のない家で家政婦をしたり、夜は夜学を開いて文字や言葉を教えたりして、心が通じるようになるまで何ヵ月もそやって奉仕しながら、私たちの教会は次第に大きくなっていきました。その頃、大学に行きたくても、私と一緒に伝道するために、大学進学を放棄して教会に献身した草創期の学生たちを、今も忘れることができません。