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第2章 死と霊界 : 第二節 死に対する理解 : 5. 霊界に行く前に残すべきこと |
(1)愛の墓を残すべし
地上に生きている神様の息子・娘を残すことが神様の目的です。それゆえ、自分が霊界に、神様の前に行ったとき、地上に生きた神様の息子・娘を残した立場になるときは、自分も神様と同じ立場に立つようになるのです。それが聖書のみ言にある「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という意味です。
生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残さなければなりません。愛の墓を残していこう! 愛の墓の中で暮らせば、恨がありません。墓のような所でいくらじっと暮らしても、愛の中であれば恨がないのです。私たちが暮らしながら愛の墓を残すならば、人生は永遠に成功するのです。そのように皆さんが暮らして死ぬときは、霊界で神様が息子・娘を連れて歓迎に出てくるでしょう。そのときには、指輪をはめられなかった子なら、天国のダイヤモンドをはめてくださるでしょうし、服を着ることができなかったなら、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくださるでしょう。
(2)霊界の所有権は伝道で決定
霊界での自分の所有権とは何かというと、天国の民をどれほど連れて入ったかということです。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべき時が来ました。今に、一日に何百万人が伝道される時が来ます。そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬか生きるか、人生とは何か、さまよい歩きながら落ち着くことができず、狂ったようになって自殺する人がどれほどたくさんいますか。
霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、(人々が)その懐に入ろうと列をなすようになります。その人は、あの世で尊敬されます。千人、万人に囲まれて、「あ! 私はこの人と一緒に暮らしたい」という声を聞くようになれば、その人はそれほど領土が大きい金持ちになるのです。あの世の金持ちとは、どういう人でしょうか。愛のために投入した人が金持ちです。
伝道というのは、福を集めることです。愛の福を集めることです。天のものを奪っていったサタン世界の泥棒たちに、主人になって愛で訪ねるのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという愛の心で訪ねて、愛に因縁づけられたすべての福を取り入れるのです。
冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから自然に金持ちになるのです。
霊界に入っていくとき、お金をもって行くのではありません。サタンの息子・娘を収拾しなければなりません。1人が120名以上収拾しなければなりません。天国の民をみな失いました。ですからそれを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。
霊界の12の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから天の民を探さなければなりません。そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上に、サタンの夫や妻以上、息子・娘以上の心情を投入して、涙と血と汗と共に交差される過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することができません。この数に比例して、あの世の栄光の立場に、神様の近くに行く条件が成立します。
これから霊界に行くとき、何をもっていくかというと、お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。これから皆さんがすべきことは、神様が愛することができる息子・娘をたくさんつくることです。人々が赤ん坊を生むとしても、何人かしか生むことができません。それは、誰もができることです。
復帰過程で経ていくべきことが何でしょうか。皆さんがサタン世界で、神様が愛することができる多くの息子・娘をつくるようになるとき、その功労は先祖とつながって、先祖を解放することができるのです。これが復帰路程において、自分が取ることができる最大の贈り物です。
いくら重要な職責にいたとしても、振興の息子・娘がいないならば、あの世に行くとき空き缶をもって行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていないために、そうなるのです。
天国は無限の世界なので、そこでは愛の心情でつながることができる橋がなければならないのです。それゆえ、自分が伝道した人が世の中にたくさん広がっていれば、霊界に行って広く往来することができる道が生じるのです。全部が自分と因縁を結ぼうとします。地上からあの世に行くようになれば、霊界では解くことができる相対的関係になっていますから、膨大な活動基盤になるのです。それが全部自分の所有になるのです。それゆえ、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じることができるのです。それがなくなれば、隅に追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。
ご飯を食べて暮らし、息子・娘を食べさせ育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。それゆえ、天国の民を探さなければなりません。それが天国で自分の所有になるのです。
それゆえ、私たちがはやく世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子権はサタンの基盤です。それが逆さに神様の基盤になって、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言うことを聞いて、ついてくるようになっています。絶対服従する位置に行くようになれば、神様の愛と共に、アダムの愛の圏内にあるために、自然に天国について入るのです。原理がそうです。
人間が地上でこの責任を果たせなかったことによって裏返しになったために、人間は裏返されたものを再び解かなければなりません。蕩減復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がいかにとてつもないことかを知るべきです。それゆえ、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。
イエス様がエルサレムに行ったとき、無花果の木に実があると思って行ってみたのに、実がなかったので呪うと、無花果の木が枯れて死んだのです。ちょうどそのようになるのです。うわべだけ良くてどうするのでしょうか。それゆえ、自分が祝福家庭を何家庭つくったかということが、皆さんの収穫になるのです。
120名、何百名を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子・娘を愛するということはあり得ません。原理を見ると、120名を伝道しなければなりません。120数は、イエス様の世界国家を代表したのです。430家庭は、一国を中心として、その中にある名字と同じです。430年を中心とした430家庭です。それは、すべて名字と同じように、国民が天国に入ることができる門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。
これは、空論ではありません。理論的です。歳月をそのまま送ってはならないのです。青春時代に息子・娘を生んで育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが立派な人になってこそ、歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れてくれますが、国には入ることができないのです。国に入るためには、伝統に残り得る実績がなければなりません。
それゆえ、誰でも国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同様の道理です。それゆえ、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それゆえ、み旨の道では自分が嫌なら辞めると考えることはできません。
先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任をもつのは何のためでしょうか。その環境で、苦労する人たちを救ってあげるのです。苦労する環境で自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくることによって、収穫されるのです。霊界に行くとき、これを全部公的なものとしてもてなされるために、その人は天国のいちばん高い位置に行くのです。
国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、それをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の実績を残し得るかということが問題です。そのようになるとき、世界は早いうちに復帰されます。それゆえ、精誠を尽くして育てなければなりません。
先生もそうです。先生が今までみ言を語るようになれば、5時間、6時間ずつしますが、そのようにしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。15分で話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人たちに、来たすべての人たちに、いろいろな例を挙げて、理解しやすいように説明して、その圏内に同参させようとしてそうするのです。目的は、春の季節が来るようになれば、何としてでも種をたくさん蒔こうということです。種をたくさん蒔いておけば、たくさん生えるのです。
では、種を蒔くとき、どこに蒔かなければならないのでしょうか。汚れない場に蒔かなければなりません。汚れない場とはどこでしょうか。青少年たちです。そのとき一度植えておけば、一生もつのです。そのとき植えておけば、抜いてしまうことができません。
人は、いつがいちばん鋭敏でしょうか。初等学校の時なのです。中・高等学校に行けば、だんだん希薄になるのです。大学に行くようになれば、その隣町を経ていくのと同じです。旅をしてきて何かをするようになるのです。いちばん鋭敏で難しいのが初等学校のときです。その次に中・高等学校のときです。時がたつほど、だんだん薄らぐようになります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。
あの世では、権力は必要ありません。霊界で必要なのは、愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それゆえ、愛を中心として感化力をもつことのできなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行っては、本質的に和合できず反発するのです。それは地獄に行くのです。
皆さんが統一教会に入ってきて、今まで暮らしながら働いたと言いますが、どの立場で働いたかを考えなければなりません。どの方向か、どういう位置なのかをいつも考えなければなりません。そのように祈祷すれば、神様が自分と共にされるというのです。それは既に、目をつぶりさえすれば分かります。祈祷をしなくても分かるというのです。どこかに行って話そうとすれば、言葉がすらすらと出てくるのです。良心のある人のところに行けば、自分がずっと引かれて入っていきます。
皆さんがすべきことは、天国に連れていくことができる息子・娘を探すことしかありません。いくら億千万の金をもって豊かに暮らしても、それはみな流れていくのです。自分のすべての物質と知識と生命まで投入してでも、伝道しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、一遍に投入して天国の民をつくると言うべきなのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。
皆さんがどれくらい永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかということは、どれくらい天国の民を収穫して取り入れたかという問題にかかっているのです。それを取り入れることができる鋤が、今まではありませんでした。しかし、皆さんには背負子があります。熱烈にみ言を伝えるようになれば、爆発的な収穫を収めることができるのです。しかし、そのような内的実力をもっていながら、ただ歳月を送っているので、神様は雷を落としたいと思うことでしょう。
夜の12時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願っているのに、「ああ、私は眠りたいです」とは言えません。その立場は直行する立場です。
永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それゆえ今まで、私は反対する人を呪うことができませんでした。天は自分と関係を結び、決定づけることを願うのに、その人が落ちれば、私たちの責任だというのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対するようになりましたが、その反対される環境を早く克服することが、私たちの責任なのです。それができないことによって、すべての環境が被害を受け、悲惨なのです。
それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を産めば、お乳を飲ませなければなりません。それゆえ、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはなりません。先生も一生をそのように暮らしています。誰が12時にここに入ってきたとしても、その人が行きたがらなければ、自分が続けて座るのであって、行けとは言いません。その人は必要なものがあるために、行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をそのように暮らすことでしょう。絶対事務的ではありません。霊界はいつも覚めています。
皆さん同士でけんかをして、一人でも落ちれば、その被害が大きいのです。その人がこれからみ旨を知って天の前に自分の責任を果たし、何千名、何万名を救うことができる、自分よりましであり得るし、驚くべきこともあり得ます。ですから人事措置を誤れば、全部引っかかるのです。それゆえ、自分が低い所にいて、皆を高い所に置こうとすれば、引っかかるところがありません。それが謙遜ということです。
それで、振興の息子・娘を自分の息子・娘よりももっと愛し、振興の息子・娘は、自分を生んだ父母よりも信仰の父母のために尽くさなければなりません。自分を生んでくれたのはサタン世界の父母ですが、信仰の父母は天の世界の父母であるために、自分を生んでくれた母よりももっと為にするのです。そして、信仰の息子・娘たちは、自分を救ってくれた人の子供たちを精誠を込めて育てて、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。
それゆえ、永生問題とつなげれば、すべてが無駄です。彼らがみ言を聞いたとしてもそれで終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場まで出さなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道するようになれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で迫害を越えていくことができれば、その人は、既に生命の道に入るのです。祝福を受ける時点まで行けば、終わるのです。
そして、説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら話さなければなりません。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾くようになれば、それは偽物です。
年の多い人たちがみ旨の道を行くには、これからどのようにすべきでしょうか。肉身が老衰すれば、生理作用でも制約をたくさん受けますが、これを何で補強すべきでしょうか。先生がこれを研究しています。霊と肉を中心として活動しなければならない時代に、絶えず弱化したらどうするのでしょうか。先生がそれを今準備しているところです。
では、問題は何でしょうか。新しい出発をしなければなりません。新しい出発をするには、毎日のように新しいものを発見しなさいというのです。新しいものを発見する人は、絶対に落伍者になりません。難しいことにやられても、絶対に失望しません。かえって楽しみがわくのです。
霊界に行けば、誇るべきことは何でしょうか。生命をどれほど生かしたかということです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、数多くの民族を新しい生命と関連させました。どれほど生かしてやったかということが財産です。財産はそれしかありません。
霊界にはない物がなくて、ほしいものがありませんが、最もほしいものがあるとすれば、真なる人です。それゆえ、真なる人を養育するために功を捧げたその功臣は、天上世界で当然栄光の息子・娘になることができます。それゆえ、誇ることができるのは、それしかないのです。
霊界で、皆さんの心が愛の鐘の音の鳴る場に入るようになれば、明かりがだんだん大きくなるのです。この光は五色燦然なのです。神様の目には、ダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。
そして、それが光るだけではなく、その光の中は味があるのです。それは、見れば見るほど良いのです。絶えず見れば酔ってしまいます。酔ってしまうのです。それゆえ、神様は、愛という言葉を使うのです。
それゆえ、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほどもったか、それが皆さんの財産なのです。
(3)息子・娘をたくさん生むべし
霊界では赤ん坊を生みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を生む必要がないのです。縦的な基盤が必要であるために、人間の体を造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は全部この地球から行くのです。このように考えてみれば、今産児制限をなぜしなければならないのか理解できません。それは、天命によるものです。悪なる血統をこれ以上繁殖させてはいけないというのです。
祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかということが財産になるのです。信仰の息子・娘は、祝福という関係を知りません。そのような息子・娘をどれほど残していくかに従って、天国で自分の位置が決定されるのです。
完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で真の父母を中心として、完成が可能なのです。霊界ではありません。息子・娘を生まなければなりません。息子・娘がまさに天国の民になるのです。皆さんの息子・娘が、理想的な天国の民になるのです。ですから、皆さんが息子・娘をたくさん生まなければなりません。本来は12万回以上にならなければなりません。それで、先生は12万回以上を願います。
息子・娘がいなければ、天国が繁栄しません。
ですから祝福家庭は、地上で産児制限してはなりません。飢えても死んでも、全部霊界に行きます。飢えても死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。
それゆえ、サタン世界は産児制限しますが、私たちは産児制限してはいけません。先生はみ旨のために苦労しましたが、飢え死にしませんでした。飢えて死ぬ場に行っても、生きることができます。そのような訓練がみなできています。
絶対的な愛のためにすべてを犠牲にするようになるとき、神様も調節することができ、サタン世界も調節することができ、天運も調節することができるのです。調節するということは、神様がついてくるということです。神様がついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるということです。
皆さんは、地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来、その子女はすべて霊界に行きます。霊界に行って、天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかというとき、地上ではつらいことでしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道になるのです。
地上では教育や食べさせることなどで、とても苦労するのです。しかしながら、霊界では、食べるものは問題ありません。着ることは問題ありません。暮らすことは問題ありません。できるだけたくさんいればいいと思うのです。
神様がすることは、世の中を救うことです。霊界に行ったすべての次元の高い人たちの仕事が地上の仕事です。地上は天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。
一人が子供を約100人ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということがありません。あの世はいくらでも収容することができる世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくらいつくって率いて来るかということが問題になります。真なる天国の息子・娘をたくさん率いて来るとき、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料になるというのです。