第2章 死と霊界 : 第二節 死に対する理解 : 4. 死ぬ前にすべきこと

(1)神様と共に最後の境界線を越えよ
 どうせ一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨が吹きつけても、最後の峠を越えなければなりません。うまく進んでも境界線の前で倒れてはいけません。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になることができません。
 人として生まれたのは価値のあることです。たとえ反対され迫害されたとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても関与する余地がありません。一歩一歩運命の道を経ていくべきだと言う人が、最後の境界線を越えることができます。皆さんは、そのように行かなければなりません。

 私たちは、いつか肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それゆえ、この世に生まれた私たちは、死を覚悟しなければなりません。また、善なる自己を永遠の世界に第二の自分として立てるためには、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれるように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同じなのです。それゆえ、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習って育たなければなりません。そのように育ったなら、また生命をかけて越えていかなければなりません。

(2)罪を犯すな
 皆さんは心がまっすぐだと言います。電信柱がまっすぐだというのは、まっすぐに立っていることを言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人が立って歩くのです。垂直にならなければなりません。
 自分の心が完全に垂直になるようにすべきです。そして、体が水平線になるのです。遠心力・求心力がなければなりません。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それゆえ、自分を探さなければならないのです。
 自分はこうだと言うときは、神様がそうだと言うべきであり、真の父母がそうだと言うべきなのです。その次に、親戚、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。
 これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪をたくさん犯した人は、北極に送るそういう時が来るのです。伝染病患者を隔離するようなものです。

(3)世界のために生きて、多くの仕事をせよ
 先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労しませんでした。世界的な分野でどのように責任を果たすのでしょうか。そのために、死ぬことができなければなりません。
 このようなことを考えてみるとき、皆さんは世界のために生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どのような立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な立場に立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、自分の氏族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。私たちは、今、氏族を編成して、民族を編成していっています。
 それゆえ、私たちが死ぬとしても、どのような立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国まで抱いて、世界のために死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界のために死のうとするときは、世界と共に生きることができる道があるために、その道を探していくのです。

 今や皆さんは、どの版図で働くのでしょうか。お金が必要ならお金を稼ぎ、人がいなければ、人を育てるために寝ずに食べずにしなさい。絶対に誰かに助けてくれと言ってはなりません。普通の人の三倍以上をしなければなりません。
 それゆえ、私が70年を生きたとしても210歳まで生きるのと同じです。皆さんも、100歳まで生きると思わずに、70歳まで生きてでも三倍働くようにすれば、210歳まで生きることになります。そういう考え方をするのです。十倍するようになれば700年を生きるのです。二十倍するようになれば1400年を生きるのです。一生24時間働くのです。そうしてこそ霊界に行って、それが全部実を結んで愛の所有が多くなるのです。愛の財産が多くなるのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広くなるのです。

(4)公的な生活をせよ
 天の法度は何でしょうか。公儀を優先することです。私的なことはサタンのものであり、公的なことは神様のものです。皆さんは、公儀のために行くべきです。そのような路程で、すべての人たちがいくら反対したとしても、自分に侵害を受けずに、難しい道も生命力をもって行く人がいるなら、その人は春を迎える天国人になるでしょう。

 皆さんが市場に行って見ても、店の主人が欲ばかりならば、お客は物を買いに行きません。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治める方法や秘訣を知らない人は一人もいません。それゆえ、知らなかったから天国に行けなくなったと言い訳をすることができないのです。公的か、私的かということは教えてあげなくても分かるのです。
 例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんにおいしい餅を全く同じに分けてくれたのに、皆さんは自分の分を食べて、お姉さんが食べずに真心込めて保管しておいたものを、寝てからそっと起きて一人で食べようとすれば、心が「こいつ! この野郎!」と言うでしょう。そのように感じないなら、人ではありません。そうなるべきなのです。皆さんの心が公的なものを追求するためです。私的なことについていけば滅びるのです。
 本来、天法の道理に従っていく自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。神様に本来そのような心があるので、人間にも本来あるようになったのです。自分がつくった法ではないということです。「良心よ、私がこのようにするからだ」と言いますか。「私の考えがこうであるからそうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他のところから命令を受けるのです。そのような感情が自分を支配することを見るとき、これは公私の問題を中心として支配するということが分かるのです。

 今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外にひっくり返って行ったり来たりして、結局は私的に溺れる場合がたくさんあります。しかし、そのようにんれば滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活をするために歯を食いしばってやらなければなりません。私的な生活と公的な生活が行ったり来たりして私的な個人に入り込むことが多くなると、公的な善とは遠ざかる生活になります。これが今までの信仰生活です。それゆえ、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければなりません。

 皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するにも、自分の息子・娘だけを愛してはなりません。世界の人のための、祭物的な息子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した父母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をやるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいがるのではなく、人の子も自分の子のようだという心情で対する母にならなければなりません。そのような母のお乳を飲んで育つ赤ん坊たちは、必ず偉大な人になるでしょう。すぐにはならなくても一代、二代を経ていく間に、必ずその後孫の中に世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。

 では皆さんは、私的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減のために公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物になるのです。そのような群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。
 では、そのような主管を前にしている私たちは、残った時をどのように埋めるのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自分は個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかというのが問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってというすべてが、誰のためのものでしょうか。自分のためのものですか、神様のためのものでしょうか。また、問題になるのは、それが公的な生活か、私的な生活かということです。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かということも問題になるのです。
 公的な道を行くために誓わなければなりません。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場まで進まなければなりません。それゆえに、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどのように体得するかということが、信仰者が重要視すべき問題です。
 罪とは何でしょうか。罪は、私的なところで生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があるのに、その限界を超えれば悪になり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。
 では、永遠に善であり、永遠に繁栄することができ、永遠に福を受けることができる立場がどこでしょうか。滅びることを避け得る立場、罪となることを避け得る立場、悪くなることを避け得る立場がどこでしょうか。それは、まさに公的な立場です。ご飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。このように、一切を公的なことと関連づけて暮らさなければなりません。そのような人は、地獄に行こうとしても行くことができないのです。

(5)愛を体恤すべし
 皆さんは、自ら「私だけだ!」と自分だけを考えてはいけません。皆さんは、自分だけでいるのでしょうか。皆さんから、お母さん、お父さんの要素を抜き出して、供給されたすべての万物の元素を抜いていけば、皆さんはなくなります。それゆえ、「私」という存在は何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。
 それで、今日の地上時代は「宇宙の母、万物の母」というのです。これが地です。地球星が母なのです。(地球は)皆さんに元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つときに、何で呼吸するのでしょうか。へその緒で呼吸します。へそが母の体とつながれたホースです。
 腹中で暮らしてからそこを蹴って出てくれば破壊です。そのときは、しかしながら、第二世界、空気の世界につながることを知っています。泣くと同時に何につながるのかというと、気管、鼻の穴で息をするようになっています。空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。そのような鼻の穴をふさいで生きることができるでしょうか。息ができなければ死ぬようになります。そのように二重構造になっています。
 腹から空気の世界に出てくるときは、腹中世界で暮らしたすべてのへその緒と水袋をみな破壊して出てこなければなりません。腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、どこへ出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口で元素を補給されて生きているのです。
 腹中から出て、この体が何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきことは何でしょうか。生まれてすべきことは、愛というものを体恤することです。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給されて、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれ、サインカーブと同様に上がれば、みな消えていくでしょう、赤ん坊として生まれて大きくなって、その次には分解されていくのです。赤ん坊として生まれ、赤ん坊に帰るのです。
 そのときは、どのようになるのでしょうか。第二の腹中世界を蹴ってしまい、第三の愛の呼吸器官につながるべきです。父母の愛、兄弟の愛を蹴ってしまい、大宇宙の神様の本性に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちました。それゆえ、皆さんは、今この地上世界で愛の息をすることができるパイプ装置をつくらなければならないのです。それで、霊界の体験が必要なのです。霊的愛を感じることができて、呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。
 この地球星の母の腹の中を蹴って立ち上がるとき、皆さんは愛の呼吸器官で息をするというのです。第三の愛を受け継いでこそ永生を得るというのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。神様に帰るのです。愛の呼吸器官につながって霊界に帰りますが、神様の本性に帰る道が残っているのです。種は本体から出てきたので、結果を結んで本体に帰るべきです。
 それで、人生行路は旅人の行路だというのですが、ここで備えるべきものは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。母と父の愛をよく受けられなかったのが堕落ですから、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子・娘の愛を中心として、縦的な家庭を成して、横的な環境を、東西南北に多くの家庭を並べておかなければなりません。それで、彼らが縦横をつなげることができる真の家庭の形態をなして、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながるようにするとき、愛でつながったその世界を天国と言います。