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第2章 死と霊界 : 第一節 人生必然の道 : 1. 神様の永遠なる対象 |
地球も息をして運動するのです。皆さんの細胞も息をします。
皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になったところで永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に生きなければなりません。神様が見せてあげたいというとき、皆さんの体では神様を見ることができません。ですから、霊人体が必要です。
見えない精神の中心が神様であり、神様は相対的存在である人間に自分が創造した永遠のすべての理想圏を与えたいのです。
今、私たちは、知っても知らなくても、あるところに向かって行っています。私が動いている時間にも、休んでいる時間にも行っているのです。単に私だけではなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって行っているのです。これは否定することができない事実です。
一生を経た後に、自分はあるところに行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢に引きつけられ、率いられていっているということを否定することができないのです。
では、どうせ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かっていて、自分の心情はどこへ行こうとするのでしょうか。自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決できなかったとしても、私たちはどうせ行くべき運命に置かれているのです。
私たちが死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望までも、共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と解決点と、確実な目的観を提示しておかなければなりません。
それで、その歩みをつかまえて、動く心と傾く心情に、「お前はどこへ行くのか?」と聞いてみて、これを解決するために闘ってきた人達が聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主たちです。彼らがそれを解決するために出てきましたが、今まで「私の体はこのような所に生き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走れり、ゆえに、全天下に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け!」と、自信をもって命令した人はいないのです。
もし、人を何日間か生きてなくなる、そのような存在として創造したなら、神様は絶対者ではありません。神様は人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。
人間は神様が喜び得る対象ですから、神様が永遠であるなら人も永遠であるしかありません。そして、永遠な神様は、永遠の世の中を相手にするのです。
ところで、「80年生きればいいのであって、死んでしまえば終わりだ」という考えで生きてきた人たちがたくさんいます。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、「どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないか」と考えました。志を抱いた人であるほど、「人生とは何か。人間はなぜ生まれて旅人のように行くのか」と言い、「人生は苦海」、「草露の人生」などと言いました。しかし、永生することさえできるなら、そのように悩む必要がないのです。