第1章 地上と霊界での人間の存在 : 第四節 祝福と永生 : 2. 永生の道

(1)一生と永遠
 皆さんは、どれくらい生きると思いますか。「70年、80年は生きるだろう」と考えていることでしょう。その前に死ぬとは思いません。皆さんは欲張りです。一生を生きるのに、80歳で死ぬとか、100歳で死ぬだろうと信じても、明日死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんは、「ああ、私は若いので、今から少なくとも40年、50年は生きる」と考えています。そのような欲をもっていることでしょう。それは神様に保障されましたか。皆さん、できるだけ1年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にすべて準備しなければなりません。このような観念をもって生きなければなりません。できるだけ短く見積もるほど幸福なのです。短く見積もるほど、損害を見ないというのです。その期間に真のものになるように準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。
 では、その短い期間に、神様を愛してみましたか。神様と一つになって愛したいのに、愛することができません。神様は「愛しなさい」と言われるのです。そのように生きて死ねば、それが永遠の生命の主体になるのです。
 皆さんが、2年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式を執り行う所にも行ってみるのです。これは信仰生活に絶対必要です。それゆえ、生きようという人たちは死ぬのであり、死のうという人は生きるのです。原理が適用されるのです。その短い期間にみ旨のために死のうと、天のために死のうと思えば、永遠に生きるのです。同じ道理です。独身のときに死ぬと思っていたのに愛する妻を迎えるようになれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男性が復活して結婚できる日を迎えるようになれば、どれほど喜ぶでしょうか。
 皆さんは、何歳まで生きて逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ立場に立つとしたらどうしますか。天が自分を褒めることのできる何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配しようにも、心配する暇がないのです。
 一生と永遠の問題では、一生を短く見積もるほど価値があるのです。このように個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛するのは何でしょうか。全人類を愛するための教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世界へ行って、すべての人を愛するための教材だというのです。

(2)永生と宗教
 永遠の生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠なる神様の愛を追求するのが信仰です。永遠の生命と共に永遠の愛と一致するために、神様の喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが信仰の道です。それゆえ、信仰生活をする私たちの個体が、どれほど前進的愛と生命力をもって生きるかというのが、何よりも重要な問題です。
 私たちが五官を通じて感じる感覚の一切が、生命や愛とどの程度の関係を結んで生きるかによって、人間としてどれほど価値をもっているかという問題が左右されるのです。それゆえ私たちは、私たち自身が、生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、そのようになっていないなら、停止するか、そうでなければ後退するのです。

 人は永生するのです。宗教は今まで地球星でなくなることもなく、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら世界的な版図を拡大させてきました。それは、人は一生が問題ではなく、永生しなければならないからです。
 人が生きる時には、宇宙と共に生活しなければならないのです。一生は100年ほどの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で存在し続けることができるのです。
 それゆえ厳然と永生しますが、そうでなくても、苦痛の中で呻いて生きる人類に同情して助けるためには、仮想的な永生でも主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を推理し切らなければならないのです。そのような面でも、宗教が必要なのです。
 ですから、皆さんの永生問題と共に、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題がつながっています。

(3)永生のための人生
 神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の唯一絶対の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。最近、一人の人間の命の価値はどれほどになりますか。何文にもなりません。そのような無価値な人間ではありませんでした。宇宙を与えても取り替えることができない高貴な価値でした。
 今日、すべての文学世界を見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が、永遠、不変、唯一なので、その対象の愛の立場に立つようになるときは、永生するのです。永生という理論が、ここから生じるのです。生命から始まるのではありません。

 真なる人とはどのような人でしょうか。神様と内外で一つになって、子女の立場で完全に愛され得る人が、真なる人です。そのような人が暮らしていく生活を、真の人生の道というのです。
 人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙は自分のものになります。
 神様がいちばん愛して、貴く考えるものがあるなら、それを一日、あるいは十年、百年ぐらい共に過ごした後に、放り投げるように造ったでしょうか、永遠に共にいるように造ったでしょうか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。
 人は永生しなければなりません。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことのできる対象であるからです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死んだのに、その妻のハンカチをもって独身で生きた人もいるではありませんか。インドのネールは、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間、バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
 それなら、神様が一人しかいないこの上なく貴い息子、・娘を造るとき、百年ぐらい生きた後に滅びるように造られたでしょうか。いいえ。それゆえ、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それゆえ、愛の力は、時日が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすればするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きくなるのです。そこでは、うれしかったら、うれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して無限の喜びとして発展し得るのです。そのような世界が私たちの理想とする国であり、神様がおられる天国です。
 では、皆さんは永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分の貴いものがあれば、避難するときそれをもっていきますか、もっていきませんか。もっていきます。それを誇りたいですか、誇りたくないですか。誇りたいのです。では、それを一日二日誇ってやめますか。いいえ。自分が死ぬようになれば、それを自分の後代に永遠に残したいのです。
 それは、神様も同様です。神様が永生される絶対者なら、その方が愛することのできる対象も永生しなければなりません。ですから、人々は、昔から永生するのを願うのです。これをはっきりと知らなければなりません。それゆえ、絶対者である神様は、永生の価値をもった、愛する息子・娘を探さざるを得ないのです。

 人は、誰でも自分なりに生活しています。「生活」というのは一日一日暮らすことを言い、「生涯」とは一生の人生、一生を生きることを言います。さらには、宗教をもった人たちは永生という言葉を使っています。永生というものは一生ではなく、永遠の人生を生きることです。
 生涯の路程をどのように永生につなげるかということが重要です。それが生涯の責任です。また、永生というものは一日一日の生活をつないで決定されるのです。皆さんの一生というものは日々がつながったものです。
 生涯の価値的な内容はどこで決定されるのでしょうか。生涯を生きてから決定されるのではありません。一日一日の暮らし、日々が決定するようになっています。それゆえ、正しく暮らさなければならないのです。
 では、正しく暮らすというのは一体どういうことでしょうか。正しい生活とは、生涯の全路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょう、正しく暮らしたといえば、自分の一生においての誇らしい記憶の日です。「正しく暮らす」とは、生涯の路程において必ず、いちばん価値あるように暮らすということです。価値あるように暮らした日があるなら、生涯においてその日は忘れられない日になるというのです。

(4)最も重要な永生問題
 神様は、知恵深いお方です。もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることのできない神様だというのです。
 絶対的な愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験することのできないくらい深刻で胸の詰まる立場に、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。永遠に慰められないのです。その本然の、(神様が)願った息子・娘を犠牲にして、ご本人が夢見た理想形態を再現させたことで満足するのではなく、それを抱いて、千里万里移動しながら、もっと輝くように装い、もっと美しく表示することができなければならないのです。万宇宙をそのように造ったのです。

 大気が100パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。神様は、知恵の王です。そのような自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まるので、永生論理が論理的に設定されるのです。
 投入して、投入して、また投入するところから、永生の論理が繰り広げられるのです。為に生きるところは滅びません。

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、それは、間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆、唯人最貴」という言葉が出てくるのです。これは創造主の永遠なる愛と一つになった愛のパートナーも永生する、という論理が生じるようになるということです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから生じるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教で極めて貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるというのです。

 今日、キリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生は、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとするなら、心臓の動脈と静脈のような循環器官が正常に動かなければならず、神経系が正常に動かなければならず、大脳と小脳のすべての作用が正常に動かなければならないのです。そうするには、莫大な消耗が起こります。

 寝床に入るとき脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものが、この世にありません。ですから、この世の中で永生問題を決定づけること以上に深刻なことがありません。

(5)真の愛と永生問題
 新しい潮流である真の父母の愛の道理を植えて、堕落の恨を解消し、神様が君臨することのできる真の愛の家庭を成してこそ、天国に直行できるようになるのです。
 地上の天国と天上の天国はレールが同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走れるのと同様に、地上と天上世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐための道が、真の愛の道です。それゆえ、個人が行く道、家庭が行く道がつながらなければなりません。方向が一致しなければならないというのです。
 それゆえ一生の間に自分がするすべてのことは全部真の愛のための実績として、自分の後ろに永遠に固着しているので、あの世に行くようになれば、一生の功績に合うところに自然にとどまるのです。

 どのように永生するのでしょうか。キリスト教徒たちはイエス様を信じれば永生する、救われると言いますが、とんでもないというのです。愛をもってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則から見るときに、真なる人だけが神様の愛の同伴者なので、真の愛をもてば永遠に暮らすことができるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすとき、自分がどこへ行って暮らすべきかを知るようになります。
 大洋を通う大きな船に破損する危険が生じれば、船の中で暮らしていたネズミたちが全部陸地に逃げるというのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏をわきまえられるのに、万物の霊長である人間はどうでしょうか。
 なぜこのようになったのでしょうか。堕落のためです。この堕落の仮面を、悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血統をどのように解脱するのでしょうか。解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係のない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。

 90歳を越える母親は、70歳を越える息子がどこかに出掛ければ、「車に気をつけなさい、気をつけて行ってきなさい」と言います。
 90歳の老年になるまで、そのように毎日繰り返したとしても、疲れることを知りません。それは、永遠に続いても疲れません。そのようにする原動力は何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、永遠の世界である神様の愛に属していればどうでしょうか。
 このようになるとき初めて、真なる神様の対象圏を確定することができます。神様の愛が永遠不変なことを知るようになれば、私たち人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させることができるのです。愛を中心として永生するのです。