第7章 地上人と霊人との関係 : 第三節 霊的新時代の到来と再臨復活 : 6. 再臨復活と重生

(1)再臨復活
 イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんの先祖が皆さんに協助するのです。このように皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。
 イエス様当時には、霊界で条件的に生命体級の復活のための協助をした時代でしたが、今は、霊界が無条件的に生命体級の復活のための協助をする時代です。このような時代が来たために、これ以上の福はありません。もう一度言うと、霊界から協助するということです。

 世界が先生に反対しました。私を殺そうと、私たちの教会をどれほどなくそうとしたでしょうか。その中を切り抜けてきたのは、私が狂っていなかったから可能だったのです。
 天地の道理に従って、高い綱を神様に結びましたが、その綱をもってひったくろうとしても引っかからないのです。結局は、その戦いがそこに及ばず、教会の戦いとなり、国の戦いとなり、亡国の路程に脱落してしまいました。私たちの教会に反対していた既成教会との戦い、私たちの教会に反対する政党との戦い、私たちの教会に反対する民主世界、共産世界との戦いで、それを全部倒したのです。高いところから綱を垂らしておいたから、これに引っかかっているのを切ろうとしますが、自分の力をもって切れますか。私たちの教会を断つことができますか。哲学でも、宗教でも、霊界を通じても、理論的に私たちはやられないのです。
 私がアメリカに行っている時のことです。アメリカに霊通人教会があり、そこの親分でフォードという人がいます。この人が、アジアにレバレンド・ムーンというこれこれこういう人がいるという噂を聞いたのです。私たちの宣教師が行って宣教する時は、人を訪ねて回りません。霊界に通じる人に原理の本を手渡しながら、「この本がどんな本か調べてみてください。一週間後にまた参ります」と言っておいて、一週間後に行けば「ああ、先生いらっしゃいませ」とあいさつするようになっていました。

 私たちは、霊界を屈服し得る理論体系と、実践的基台を中心として、神様の前に祭事も捧げなければならないのです。祭事を捧げる式が、今朝の敬礼式(1990年11月17日、第31回真の子女の日)だったのです。
 その場で先生が祈った内容は、時が至ったので、今まで天上世界と地上世界に逆に流れていた潮流が、今や正しく流れるべきだということです。天が長子権を復帰したために、これから生まれる次子たちと、今のすべての次子たちは、天が治める圏内にいるのです。それゆえ、長子権復帰以後の次子圏時代には、悪魔の活動舞台を天法で許すことができません。
 そして、霊界に行ったすべて霊たちが、今まで地上のアベル圏を利用しました。長子が次子を殺して、祭物にしたのと同様に、これからは長子権がここにあるために、霊界までコントロールするのです。
 今は、私たちに協助することで自分たちが福を受けるようになっているのであって、反対すれば反対するほど、絶えずどん底に落ちていくのです。天運が急変して入ります。これからは家ごとに先生の写真を掛けろと大騒ぎになるでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで、旗を掲げて、先生の写真を掛けて、その前に毎日のようにあいさつをする人は、自分の先祖たちを復活させることができる役事が起こるのです。
 自分を中心として絶対服従しろと教育するなら、先生がこのような話をする必要はありません。私はそのようなことが嫌いですが、しかたがないのです。
 それゆえ、今まで数多くの雑霊界に通じる霊人たちは、私たちの教会に行くなと言いました。しかし、今からは、釈迦牟尼、イエス様、孔子、マホメットも私たちの教会に行けと教えてあげなければ、天法に引っかかるのです。なぜでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教であるからです。

(2)重生
 アジアで言うのは、重生論ではなく、輪廻説です。輪廻説は仏教思想です。それは再臨現象をその一時だけを見て感じるために、そのような現象として見るのです。全体を知らないために、そうなのです。霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けることを願います。これが霊人たちの要求なのです。
 堕落していない本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がって行かなければなりません。上がって行くにも一遍に上がって行くのではなく、段階を経て上がって行くのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がって行かなければならないのです。
 本来の人間はこの世界を訪ねていくべきです。ところで、人間がこの世界を訪ねていくには、一遍に上がって行く道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経て行かなければならないのです。
 神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで一段階上がって行くためには、必ず蕩減が起こるのです。一段階越えるためにはカインとアベルの場合のような蕩減役事が必ず起こるのです。
 ある霊人がこの時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一つの段階を超えて行くためにはただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があるのです。それは、一日二日で成されるのではなく、7年とか、40年、70年、あるいは何世紀を経て行く時があるのです。
 それゆえ、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上げって行くことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのに、その人が期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第二次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。
 その霊人がパウロだとすれば、パウロが時代的に一段階一段階上がって行くためには、第一次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬことになれば、第二次として乙という人に再臨協助して上がって行くのです。必ず蕩減期間があるのです。
 蕩減期間は、原理的な期間であって、短期間には成されません。それゆえ、第二次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には丙という人を選んで再臨するのです。それで結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです。この時、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。
 このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だというのです。リインカーネーション(reincarnation)現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こるのです。

 本来の人間はサタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で生きなければならないのに、堕落することによって堕落圏で暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。
 このような観点に立って見る時、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな超えていかなければなりません。それゆえ、何億万年もかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を超えられなかったために、国の峠を越えるために再び来られて、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。イエス様は今楽園にいますが、同様の道理です。
 イエス様がこの中のある人に再臨してその人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、自分がイエスだと言うのです。それゆえ、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。
 人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で生きなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはならない運命にあるのです。それゆえ、このような問題があるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教は霊的にそれをしてきているのです。
 このような観点に立って見る時、私たちの教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまるのです。言い換えれば、復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちがそのような道の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。
 皆さんは、おkの原理自体が理論的にそうなっているのだと考えて原理を学ばないでください。この原理自体を探すのも大変ですが、これを実践して勝利の基盤をつくらずには、皆さんに教えてあげることはできないのです。
 言い換えれば、ノア家庭の内容を知って、アブラハム家庭の内容を知って、ヤコブ家庭の内容を知って、モーセの内容を知って、洗礼ヨハネの内容とイエス時代の内容を知って、それで終わるのではなく、それらのことを知って、全部蕩減して復帰した勝利の基盤を備えるのが問題です。その基盤が備わって初めて皆さんに教えてあげるのです。
 過去にサタンに負けたことを、勝った立場に復帰しておかなければ、神様のみ旨を成して行くことができないのです。今まで復帰摂理を担当してきたノアとか、アブラハムとか、ヤコブとか、モーセのような人たちも、これを知らなかったのです。
 しかし、この地に来られる主は、個人として失敗したものを復帰しなければならず、家庭として失敗したものを復帰しなければならず、氏族として失敗したものを復帰しなければならず、民族として失敗したものを復帰しなければならず、国家として失敗したものを復帰しなければなりません。来たるべきその世界を得る時まで、それらすべてを知って、実践することができる代表者です。実践しなくては、成すことができないのです。
 皆さんがメシヤに出会い、その方を信じて従えばどのようになるでしょうか。その方が個人、家庭、氏族、民族、国家時代を中心として完成する時、皆さんがその方に会えば、皆さんは、個人、家庭、氏族、民族時代の恵沢を受けて、国家時代と共に上がって行くのです。ところで、個人時代にいる人が、メシヤを迎えて家庭時代に上がって行くためには、霊界にいる霊人たちと同様に、肉界で蕩減をしなければならないのです。また、家庭時代から氏族時代に上がる時にも蕩減路程を行かなければならないために、結局、教会に入って長い人であるほど、蕩減をたくさん果たしたということになります。長いほど、先生と近い立場にいるという結論になります。

 国家時代まで上がって行くには、縦的に上がるようになります。ここで国家体制を決定して、越えて行かなければならないのです。ところがこの過程において、上がって行ってそれ以上上がれなくなった時は、落ちることもあります。なぜなら、霊界の現象は、いくら高い段階まで上がってきて役事したとしても、同様の現象が起こるのです。ここには、蕩減があるためです。蕩減とは行こうとするところに対して行けないようにすることなのです。反対になることをさせるのです。それゆえ、うっかり過ったら、落ちやすいのです。ここで失敗するようになれば、みな崩れることになります。
 イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を迎えるために4000年間準備してきましたが、み旨を成せずに死ぬことによって、準備した基台がすっかり崩れたのです。それゆえ、ここから上がったり下がったりする過程で、数多くの犠牲者が生まれたのです。
 それは神様の主流摂理を通じてすることですが、支流的にも世界の数多くの民族を中心として、このような作用が起こるのです。このような作用が起こることによって世界的に蕩減が展開されるのです。
 一つの主流としてこのように上がって行くなら、これに従って全世界的にあるものは別の立場で蕩減が成されるのです。このような蕩減を果たして収拾していくのです。それゆえ、今まで数多くの宗教が多くの犠牲を払いつつ、復帰の路程を通過してきているのです。
 霊界の霊人や、宗教家が、最高の善であるこの基準をどのように超えて行くか、言い換えれば、国家基準を超えて、どのように落ち着くかということが問題です。メシヤは蕩減する方法を知っているために、もし国民がまだ蕩減できなかったとしても、彼と共に一つになれば蕩減期間が短いのです。もしメシヤと共に国が落ち着けば、すべての個人は全部ここに適用されます。国家が蕩減を果たしたなら、家庭は家庭なりに世界的になり、氏族は氏族なりに、民族は民族なりに、そして国家は国家なりに世界的に上がって行くのです。このように見る時、国家を立てれば世界復帰がどれほど早いかということを、皆さんは考えなければなりません。
 国を立てておいてこそ、楽園を越えることができるのです。楽園は何かというと、天国に行くたまの待合室と同じです。それゆえ、アダム、ノア、アブラハム、ヤコブがこのような過程を通じて復帰してくる時に過ったことが残っているならば、それは全部蕩減しなければなりません。蕩減しなければ、横的に発展させていくことができないのです。
 このような観点から見る時、国がどれほど重要かが分かります。国さえあれば、落ちないのです。ここでもドイツ人以外の外国人はドイツ政府の干渉を受けるのと同様です。もし間違えるようになれば、追い出されるのです。追い出される時、自分の国家がなければ、どこに行くかというのです。その時は、行く所がないのです。そのような人は、死んでしまってもどこにも訴える所がないのです。
 サタン世界も同じです。サタン世界において、私たちは彼らの怨讐です。神様を信じる人たちは、彼らの怨讐ですから、その国で私たちをどれほど憎み、またいじめるでしょうか。それだけでなく、彼らが私たちを追放しても、あるいは殺しても、訴える所がないのです。このように国が重要であるために、神様も国を探してこられたのです。

 皆さんが国家を探して行くには、個人、家庭、氏族、民族、国家まで蕩減しなければなりません。個人的な蕩減路程と、家庭的な蕩減路程、氏族、民族的な蕩減路程を行かなければなりません。そうしなくては、世界に行く道がないのです。このように国家が中心になるためには、各国もこのような中心となった国家を通じなくては、この道を行くことができないのです。
 もし、皆さんが国家を復帰できずに死ねば、この地上に再臨しても、せいぜい個人を後援し家庭を後援することができる程度で、堂々と権勢のある後援はできません。サタン世界を征服するための戦いをすることができる資格者になれないのです。
 それゆえ、国ができてこそ、皆さんは入籍することができます。皆さんは入籍しましたか。皆さんは教会には入籍しましたが、統一された神様の国には、入籍できていません。国がないのに、民になれますか。なれないでしょう? 分かりますか。
 それゆえ、霊界にいるすべての霊人も、その国の人にどのように協助するかということが、望みなのです。その国さえ存在するようになれば、再臨現象は横的に起きるのです。
 横的に起こるために自分が苦労すれば、苦労した基盤が残るのです。その国を探して上がって行く時は、いくら蕩減しておいたとしても、崩れてしまえばみななくなります。このどん底からどこまで上がってきても、崩れてしまえばなくなるのです。これの繰り返しですが、これを横的な基準でする時は、自分の実績は横的に永遠に残るのです。
 言い換えれば、復帰して上がって行く時は、蕩減してなくなる時代ですが、国を探して、横的にする時は、それが蕩減ではなく、実績として残る時代なのです。