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第7章 地上人と霊人との関係 : 第二節 地上人と霊人との関係 : 1. 善神と悪神の戦い |
この世界は、悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねてこなければならないのです。皆さんは、いつ死ぬか分からないではないですか。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来することができる基盤を地上に築いて行かなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。
霊界に行ってから、来ることができなければいけないのです。地上に天国を成せなければ、来ることができないのです。地上に来れないのです。これは妄想ではありません。そのようになっているのです。永遠をかけてしなければならないのです。先祖たちがすべて責任分担と蕩減条件に引っかかって、霊界に行っても行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんが残してはいけないのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこにみな引っかかるのです。
宗教として行くべき道、あるいは、一般の世界が行くべき道においては、互いに塀でふさがっているのです。不信仰者がどのように信仰する人と和解することができ、信仰する人が、どのように世紀末時代に来て和合することができるでしょうか。これを解決しなくては、人類は二股に分かれて、新しい一つの世界には入れないようになっているのです。
もし二股が一つの世界に入って行くことができるというなら、その世界が二股の世界の結果をもたらすようになるのですが、それは絶対的な神様が理想とするものになり得ません。一つであるしかない神様の理想世界に、二つとも到達することができないと見るのです。それゆえ今日、多事多端な世界的事件が問題解決の焦点ではなく、心と体をどのように一つにして目的に向かってジャンプすることができる自分自身を発見するか、という問題が引っかかっているのです。
宗教と世界統合を、自分自身から探さなければならないという観点で見る時、統一教会は、何をする教会かという問題がここに台頭するのです。統一教会は、宗教だけのための宗教ではありません。統一教会はこの世と一致和解して、宗教的活動基盤が社会的活動基盤に同伴することができる道を探して行くべきであり、また、世の中が宗教分野の道を探して行くことができて、これが一つになり得る道を模索しなければなりません。ここには、大きな塀が横たわっているのです。宗教と社会が一つになるにおいて、個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に、霊界まで塀で妨げているのです。
この塀をどこから壊すのでしょうか。故障はどこから生じたのでしょうか。世界の果てで生じたのではありません。個人で生じました。個人が、自分を中心として故障した結果、心と体が分かれました。心と体が分かれて、行く筋も指向する、自分なりの目的をもって行くような結果になったのです。ここから問題となるのは何でしょうか。目的をどのように一つに帰一させるかという問題、分かれた心と体をどのように一つにつなげるかという問題があります。
神様とサタンがいるとするなら、神様とサタンが働いています。神様は、今まで人間を救うための摂理をしてこられ、人間を救うための求道の摂理を指導してきています。されに反して、サタンは、神様の摂理に反対してきています。善の側の神様は、摂理の方向において一つの理想世界を目的として、毎日毎日より分けていきながら、その目的に接近することができる道を推進させていく反面、悪神のサタンは、そちらに行ってはいけないと言いながら、反対の道に妨げているのです。
一つの境界線、一つの塀を中心として、神様は「塀を越えるなら、お前は右に行かなければならない」と言いながら妨げており、サタンは「お前は左側に行かなければならない」と言いながら妨げているのです。それで分かれるのです。右に行くための人間の出発が実を結んだのが右翼であり、左に行けと言うのを世界的に展開させてきたのが左翼です。この左翼と右翼の世紀末的な歴史時代に対するになる時が今です。この右翼と左翼は、心と体が戦う結果を表したものです。
では、これをどのように一つにするか、これが問題です。世界が一つになり、国家が一つになり、氏族が一つになり、家庭が一つになって、個人が一つになるのでしょうか。違います。出発をどこからしなければならないかと言うと、個人からしなければなりません。ですから、この世界において急がなければならない問題は、個人から一つにする運動をしなければならないということです。それで、宗教の中で現実がつながり、現実の中で宗教がつながって、互いが否定することのできない自分自身を発見しなければなりません。
ところで、ここで問題となるのが、悪神が体を支配しているということです。悪神の根は自分の体を中心としており、善神の根は自分の心を中心としているのです。それで、唯物史観と唯心史観に分かれるのです。世の中の言葉は、ただ出てくるのではありません。その時代的な時がくるに従い、罪人は罪人であることを告げなければならないようになっているのです。「私はこうだ」と言う事実を告げなければなりません。私たち人間が、世界的舞台を中心として一つになるかならないかという結果的事実は、善神と悪神が世界の基準で証すのです。自分がそこに包括されており、包容されているために、それを定めて感じられないだけであって、善神と悪神はそのような立場で、世界舞台で戦っているのです。