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第6章 地上人の霊界入籍 : 第一節 人生の結実と審判 : 1. 人生の結実 |
私たちの一代の生というものは、わずかの間です。この一代が永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば無限に延長され、反対にこれを切り替えれば、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じように、上がったり下がったりするのです。
皆さんは、全部先祖たちに代わって先祖の顔を被って出てきた復活体です。その歴史がどれほど良いでしょうか。何十万年になると言われます。それほど長い歴史過程を、結局は自分一人をつくるために苦労してきたのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから、この私たちは歴史的な結実体です。
人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要であるということを私たちは知っています。ある個人が生まれ、成長して、実りを結ぶためには、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、最後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。どのような国も必ず創建期があり、その次には繁栄期があるのです。次には夕方のような期間を必ず経ていくのです。
一つの生命体として、自体内で生命が実を結ぶことのできる内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見ることができないのです。
それゆえ、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得るすべての条件を受け継ぎ、その結実のための動機となる自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体となることができるのです。
人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。そうだといって、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経た後には、正しくその実行を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。
柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見れば花があるのかないのかよく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのかないのかよく分かりません。その葉があまりにも青々としているために、実があるのかないのかよく分かりません。ところが、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば実の中まで赤くなります。そうして、葉はみな落ちても、その実だけがひときわ輝きながら木についています。
このような実は、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが100パーセント評価することができます。そのために、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成するときまで、どれほど苦労の過程を経たことでしょうか。
その実は完熟するまで、枝に咲いた他の多くの花の実よりももっと闘争をし、もっと努力したという事実を私たちは知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足らず未熟のままで実が落ちるかもしれない、といったいくつもの環境をみな克服したのです。
その木が実をたくさんつけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、その木全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。そのような実だけが残ることができる木にたった一つの実が残ったとすれば、その一つの実がその木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿によって秋を迎えるとき、自らのかいと威信と権威を立てることができるのではないかというのです。
木に花がたくさん咲き実もたくさん結んだでしょうが、それが全部落ちてしまって、秋になったのに実一つ残れず枝だけ残っていたなら、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。そうですが、多くの実は結べなかったとしても、どのような木の実とも比較できないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実をもって数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。
現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの宗派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた私たちの教会自体を中心として見るなら、神様が私たちにある結実を要求しておられるのです。先ほど言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実がその木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木はその実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。
このような立場で、皆さん自らが果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、ということを点検してみなければならないでしょう。
このような観点から見るとき、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備すべきすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけませんん。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくしては、完熟した結実を見ることができないのです。