第4章 天国 : 第二節 天国に行くことのできる要素と条件 : 3. 天国に行くことのできる生活

 み旨が動機になるのですか、自分が動機になるのですか。自分が動機になってはいけないのです。しかしいつもみ旨を後回しにして、自分を動機にすることが多いのが今日の人間です。み旨は受難の道を要求しているのに、「自分」というものはそれを裏切ろうとします。相反する立場だというのです。み旨は右に行けと言っているのに、自分は左に行こうとします。「私は教会に入って誰よりも苦労した」という条件を提示して、自分を正当化しようとします。
 自分を弁明しようとする者は天国に入れません。絶対的な信仰というのは自分を弁明する立場ではありません。弁明してもらえる立場に立たなければなりません。そこには一言も提示する内容がありません。弁明してもらえる立場です。ちゃんとしたとしても、ちゃんとしたと言える立場ではありません。自分が100パーセント認めることができるとしても、神様が見る時には一つだというのです。自分が100と認めることが神様には一つだというのです。ですから天国は自分を中心として提示する立場では行くことができないのです。
 天国はどこから始まるのでしょうか。絶対的な信仰を基点として出発するのです。絶対的な信仰というのは自分を主張できるものではありません。その立場は自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たなければ、絶対的な信仰になるはずがありません。
 皆さんがこの世の万事を肯定しながら信仰の道を行くという時には、絶対的な信仰になりません。
 このような根本問題をもって今日の大部分の人を見ると、一日の生活圏内において朝起きてご飯を食べる習慣的な生活をしながらも、「自分は神様に対して堂々としていられる」と言います。そのように信じる人が多いのです。そういう人たちは天国を所有することができません。堂々としていられません。自分を公認できる相対的な要因なしには、絶対的な信仰基準をもつことはできないのです。絶対的な信仰基準ももてないのに、絶対的な信仰基準を克服した後にのみ成される天国が成就できますか。とんでもありません。その場所にはサタンがとどまっているからです。

 イエス様は死を目の前にしても「父よ、もしげきることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)と言いました。死に臨みながらも神様に抗議するのではなく、父の大きなみ旨のためならば大きな犠牲も当然ですという姿勢でした。このような立場に立つと、神様と最も近くなり、深く入っていくのです。そういう人の前では神様もどうすることもできません。そのような人を打つとすぐ滅びます。神様が直接制裁されるのです。ですから「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(同6・3)と言うのです。
 誰々に何千万円を上げたのでそれに対する利子をいくらいくら持ってこなければならないと言いながら、上げたことを覚えている人は天国の主になれません。上げたことを忘れなければなりません。父母が子供を育てる時に、いくらいくら投資したからその利子をもらうと言う父母がいますか。上げてもすべて忘れるのが父母の心です。上げたことを忘れるだけでなく、もっと良い物を上げたかったと残念がるのが父母の愛です。その愛は永遠に続くので、父母のいない孤児になりたがる人はいないのです。

 最後にどのような世界に行くのでしょうか。地獄に行くのでしょうか、天国に行くのでしょうか。皆さんは「先生! 私を助けてください」と言う人になるのでしょうか、「先生! 早く来てください」と言う人になるのでしょうか。死でなければ生だというのです。皆さんが結婚して幸せになると言いますが、先生が幸せになりなさいと言うのは、変わらぬ夫婦になりなさいということです。変わらない夫婦になろうとすれば、変わる世界に行って一緒に修練を受けて、南北に分かれ、四方に分かれて生きている世界に行っても別れずにいなければなりません。このように訓練された立場に立たなければなりません。