第4章 天国 : 第二節 天国に行くことのできる要素と条件 : 2. 天国に行くことのできる要素

(1)苦労の必要
 永遠に残るものがあるならばそれは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅んだなら先生に抗議してもよいです。
 民族と世界、天地のために仕事をしていて打たれる人は知恵深い人です。

 一国の責任者が恩讐に捕まって優待されたなら、責任者を失った国の人たちは団結しません。捕まった責任者が悲惨な死を遂げれば遂げるほど、彼と因縁をもった人たちは鉄の石のように固く団結するのです。
 そうだとしたなら、私たちが霊界と結束できる内容は苦労だというのです。私たちが苦労すれば苦労するほど霊界は私たちと関係をもって団結するのです。
 そうでなくてただ「ああでもない、こうでもない」と言っていると、霊界も同じです。そういう意味で神様はサタンを通して作戦を立てるのです。執拗に苦労させたり殺したりするのです。死ぬこと自体はかわいそうですが反作用で結合するようになります。

 天国に行こうとする人は悲惨な生き方をしなさい、悲惨に死になさい、悲惨に歩みなさいというのです。その言葉は善い言葉でしょうか、悪い言葉でしょうか。善い言葉です。そうだとしたら外に出て死ぬほどに伝道しなさいと言うのも善い言葉です。人のために命を捨てなさいと言うのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば大宇宙の主人として立ててくださるのです。
 貴いものは万物人間と神様ですが、この世界を善なるもので抱くために命を懸けて犠牲になった人はこの三つを懸けて犠牲になったので、神様はこの三つ以上のもので返さなければならないのです。イエス様はそのような観点で「あなたの家族が怨讐だ」、「死のうとするものは生き、生きようとするものは死ぬ」と言ったのです。そうでなくては天の国に行けないので、これが最も福のある教訓になるのです。最も価値のある、最も貴く、最もなくてはならない幅員だというのです。
 それで教会に来るようになれば地上で裕福に暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかまないような死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこにはすべての聖なる人たちが集まり城を築くでしょう。皆さんを国のために、世界のためにうんざりするほど苦労させて、親孝行者、忠臣にしてあげようというのが先生の考えです。行かないと言うならぶん殴らなければなりません。足でけっても現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
 ですから「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22・37)とおっしゃったのが、二番目の戒律ではなくて一番目の戒律です。
 その次に「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同22・39)とおっしゃいました。隣人とは誰でしょうか。世界の万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために心を尽くし、精誠を尽くし、命を懸けなさいというのです。命を懸ければすべてできたも同然です。み旨のために一度死んでみましょうと言うのです。どこで死ぬのでしょうか。自分が死ぬところを探さなければなりません。
 明日の希望を実現するために精誠を捧げながら涙を流し、努力と精誠を、情熱と誠を尽くすのです。この目標に符合できる帰一点、その一つの点を準備するために命を藁のように捨てる覚悟をもっていこうというのが、先生がもっている主流思想です。ここには冒険が内外に連結されているのです。無慈悲な血闘戦を展開しているのです。
 命の限り尽くしても死なず、生き残る基盤になるならば、これは人類歴史の見本になり、万民の幸福の基調になるでしょう。すべての天下がそれを和動の基点とし、大運動を展開できる軸になる場で、神様を動かし人類の希望を結束させられる場で、自分が動けば全体が動く、私が静ずれば全体が静ずるようにする宇宙史的な責任感を感じながら生きる男であるならば、結局度量の狭い男ではないということです。

(2)愛が必要
 天国は愛の軌道に乗っていくものです。このように話せば実感できるでしょう。その愛の紐を引けば引くほどゴムのように細くなるのではありません。ゴムは引けば引くほど細くなりますが、愛の紐は引けば引くほど反対に太くなります。
 ですからみ旨のためには、苦労の乞食になるのが世界を占領することのできる秘訣なのです。苦労の乞食が天の国の栄光を独占するのです。
 今日宗教を信じる人たちが「天国に行こう」と言いますが、天国にただ行くことができますか。まず地上で天国を迎えてから行かなければならないのです。地上で天国を迎えるためには愛の法度を経なければなりません。
 皆さんの家庭に子女がたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をもっと愛さなければならない十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子・娘をたくさん送るのは背負わなければならない十字架が多いということであり、国のために捧げなければならない責任が多いという意味です。そういう内容を知って責任を果たす人になりましょう。そういう家庭でこそ、その家庭に後代を受け継ぐことのできる運勢をもった息子・娘が生まれるのです。

 どうやって天国に行くのでしょうか。神様の愛に気が狂って生きなければなりません。アダム、エバ以上に神様を愛さなければならないし、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛さなければなりません。そうでなければ、神様が自分を愛することができる真の愛の相対圏を復帰することができません。これだけ復帰すれば万事がうまくいきます。
 お金がないと心配しないで、息子・娘がいないと心配しないで、十年、二十年、その道を続けて行ってみると、大きな山や険しい峠も登れるようになります。自分はだんだん下りてきながら苦労ばかりしているようでも、だんだん高くなっているのです。一つの家の中に10人の人が住んでいれば、公的な目的のために10人の反対を受けながら我慢に我慢を重ねた人がその家庭の主人になるのです。すぐに天の国の主人になるのです。

 皆さんは五色人種の息子・娘たちを抱いて、その孫たちを抱くことができなければなりません。それで神様の真の愛をもって、真の父母として世界の人々を愛する家庭の主人になったという立場に立たなければなりません。神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表することのできる立場に立つことによって初めて天国に入ることができるのです。
 天国に入るためには、真の神様と真の父母の真の愛に一つにならなければなりません。その血統的関係で生まれた息子・娘と共にこの地で生きてから行くところが天国ですが、今までそのように生きて行った人は一人もいません。ですから天国は空いているのです。

 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは先生に従って行こうとしますが、その心で兄弟に従って共に行こうと努力しなければなりません。
 天国にいちばん高く、早く、よく導く者は神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論が出ます。

(3)実績をもたなければ
 過去においては祈祷をして精誠を尽くしても、その瞬間しかその宗教の教主と会うことができませんでした。会っては別れました。それでまた上がらなければなりません。しかし今はすべての宗教圏を中心として地上に再臨することのできる時が来ました。そのような時代が来たので、皆さんが過去と現在と未来を動かす実績をもたなければ天国に行くことができません。
 過去の時代は天使と善なる霊人たちの時代だったし、現在の時代は父母の時代です。そして未来の時代は神様の時代です。ですから霊界を動員し、ご父母様を動員し、神様を動員する実績をもたない人は天国に入れません。アダムとエバに天使が働いて協助することは神様が働いたのと同じです。その次に宇宙はアダムとエバが働かなければならないというのです。
 皆さん、神様を中心として三世界、すなわち過去、現在、未来を支配することのできる人のみが天国に入ります。そうしてこそ本然の世界である天国に行くのです。

 皆さんは教会を信じて天国に行くことを望んでいるかもしれませんが、自分がこの地で実績を積むことができなければ、たとえ天国に行ったとしても恥ずかしいことです。私たちは観念的に信仰生活をして天国に行くという群れではありません。すべての精誠を使って天国を建設する群れです。これに反対したり阻止する人がいれば許すことはできません。天国を建設するためには自分の心身はもちろん、自分のすべての所有物と環境まで全部投入しなければなりません。そして国家の運命に責任をもたなければならないし、さらにアジアの運命にまでも責任をもたなければなりません。

(4)為に生きてこそ
 皆さんが50年の人生のうち25年以上、この宇宙のために天倫に従って生きたなら天国に行くのです。そうであればあの世に行っていい霊界にとどまることができますが、自分中心に生きることが多かったとしたなら、寂しいけれど善なる本郷の世界に行くのではなくて自分だけのために生きようとする悪の本郷、地獄に行くのです。そのような事実を知って、これから皆さんは自分のために生きた過去の生活を清算して、余生を全体のために、国のために、世界のために、天地のために、神様のために生きなければなりません。そうだとしたら、ここから地獄ではなく天上の理想世界に向かって進むに違いありません。

 霊界がどうなっているかという事実については誰にも劣らない体験をしましたし、また霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的な起源を探してみるとどうなっているのでしょうか。他のために存在するようになっている世界が天国です。そこは私たちの本郷です。
 私たちは嫌でも嫌でなくても、どちらにしてもそこに行かなければならない運命にあります。それが私たちの人生の道です。それでここで問題になるのは自分のために生きたのか、人のための生活をしたのかということです。その差によって、人のために生きたことのほうが多いという時は天国に行くことができるし、その反対になる時には地獄に行くのです。この原則はこの場では信じられないかもしれませんが、死んでみれば分かるのです。
 神様は人類を救うために宗教を立てて摂理してこられます。ですから高次的な宗教であるほどその本郷のみ旨と本郷の原則と一致する教訓をうたわないわけにはいかず、「犠牲になりなさい、奉仕しなさい」と勧めないわけにはいかないのです。
 このように神様が歴史と宗教の背後で摂理している事実を否定できません。このような原則を見る時、為に生きようとする宗教は発展できますが、自分を中心として世界に問題を起こしながら主体的な立場に立とうとする宗教は下がっていくという結論も、ここで見つけることができます。

 天国は愛の世界で、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。