第1章 地上と霊界での人間の存在 : 第三節 肉身生活の重要性 : 1. 肉身生活は霊界生活のための準備

 神様が万物と人間を造られ、善しとされたのは、互いに闘うなということです。体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。善に向かって悪を越えることができなければなりません。
 自分の体が完全に勝利したということは、完全にサタンの根を抜いて征服したということです。天国は、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地上で事故を起こしたので、直すのも肉身を使って、地上で直さなければならないのです。地上ですべきことができなければ永遠に地獄に行きます。それゆえ、地上で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。

 この肉身生活は短い期間です。長くありません。それを知れば、寝る時間が惜しいのです。ご飯を食べる時間が惜しいというのです。そうなれば、ご飯を食べるのも歩きながら食べ、寝るのも歩きながら寝て、遊ぶのも歩きながら遊ぶのです。そうであれば、世界の誰も受けられない恵みを受けるのです。

 私たちが制限されたこの地上に80年ほどいたとしても、私たちの舞台は世界の祭壇です。それゆえ、ここにある万物は世界の万物であり、自分の体は世界人類の体であり、自分の心は世界人類の心です。そのような心情は神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。

 準備というものに、易しいものはありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備です。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間だというのです。

 私たちはこの世で暮らしていますが、この世の中だけではなく霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結されなければなりません。
 では、私たちが行くべき所、私たちが行って暮らす所はどこでしょうか。もちろん、私たちは肉身生活をしながら地上にいますが、永遠の世界に向かって歩んでいるのです。一般の人たちは、この世に生まれて青春時代を過ぎ、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日のように人生を終えます。
 しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んで次に迎えるべき世界が永遠だということを知って準備します。ゆえに、一生は永遠の世界に入るために準備する期間です。
 学生を例に挙げれば、一学年の間に取るべき単位、学校で制定した単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかによって、学校で認められる学生になるのです。
 しかし、定められた単位に達しなければ、学校が立てたその価値基準から遠ざかるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになっています。
 私たちが肉身世界で暮らすのは、ちょうど学校で定めた単位の基準に合うように準備する期間と同じです。私たちは一生の間に積むべき実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前でどれほど一致するかという基準を中心として、生涯路程を行っているのです。

 皆さんは、すべて自分のために消化してはなりません。神様のために消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対のために消化することを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。
 一生を、自分を中心として暮らせば、全部が気掛かりです。しかしながら、為に生きて暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず為に生きてみれば、自分は真空状態になるので、真というものが入ってきます。
 では、私たちの誇りとは何でしょうか。第一が真の愛であり、第二が真の父母です。第三が真の子女であり、第四が真の氏族です。これが私たちの四大目標です。