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第4章 天国 : 第二節 天国に行くことのできる要素と条件 : 1. 天国に行くための準備 |
(1)天国の拠点
イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨するようになれば、自分たちはそれぞれいい地位につけると思ったのです。そのようなことが問題ではありません。まず自分の心の中に天国の基盤を築かなければならないし、その心を中心として体が神様と一つになり得る基盤を築くべきです。これがいちばん大きい問題なのです。天国は、自分自身から始まるのです。それゆえ、天国の拠点は自分の心だというのです。
天国の拠点はどこにありますか。クリスチャンたちの中には「イエス様を信じて天国に行く」と言う人が多いのです。そうだとすれば天国の拠点はどこにあるのでしょうか。天国がどこにあるかと聞くペテロに、イエス様は「あなたの心の中にある」と言われました。
悲しむ心が天国の拠点になるのでしょうか。自分を立てようとする心が天国の拠点になるのでしょうか、社会を否定する心が天国の拠点になるのでしょうか。それは私たちが願う内容の拠点ではないし、神様が賛同することのできる天国の拠点ではないというのです。
天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければなりません。それはなぜでしょうか。神様が孤独だから人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てこられたので、その人も克服の歴史路程を経ていかなければならないのです。
天地が悲しみでいっぱいになっているとしても、人間がその悲しみを感じながら悔い改め痛哭の涙だけを流すならば、その場所が天国の拠点になることができるのでしょうか。それだけでもだめなのです。新しい喜びを味わうことのできる時を願いながら教団に仕える反面、この世の罪悪を解決しなければならないという心の決意ができなければなりません。そういう責任を約束する一つの方向なしには天の拠点があり得ないのです。
自分の人格が天の拠点だと確信をもつことのできる人がいるでしょうか。いないというのです。また、「私が今引き連れている家庭が天の拠点だ。神様がいらっしゃるとするならば、私たちの家庭を知らないと言うことはできない」と自信をもって言うことのできる家庭もやはりないのです。また私たちの氏族はこのような善の功績をもっているので神様は私たちの氏族に対して知らないふりをすることはできないと、自信をもって言うことのできる氏族がこの世界のどこにあり、そのような民族がどこにあるのか、国家がどこにあるのか、主の思想がどこにあるのかという時に、呆然としてしまいます。
それで、「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言うのです。それではその言葉はどういう意味ですか。悪の世界で自分自身を千年以上守るために努力してきた人でなければ、千年生きようという夢を見ることができません。また、自分自身を一万年以上犠牲にしてきたとしても、それを有り難く思える心をもっていて初めて一万年生きることのできる希望を探すことができるのです。
同じように永遠の生命、永遠の幸福、永遠の天国を叫び求める人がいるなら、彼は永遠を目標として現時点を克服しなければならず、現時点で自分を犠牲にしながら耐えて乗り越えなければなりません。このような場に立ってこそ永遠の拠点ができるのです。
(2)天国に行く基準
神様を愛さずにはサタン圏内から抜け出ることができません。ですから自分の妻より、自分の夫より、神様を愛さなければなりません。堕落した人間がサタン圏内の愛の罠から境界線まで来たけれど、まだ完全に出ていないのです。ですから自分の父や母を神様よりも愛してはいけないのです。
天国に入ることのできる人はどのような人ですか。まず神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として永遠の理想を描いていかれる方であるならば、永遠の基準で心が合わなければなりません。10年ぐらいは合っていたのにまた合わなくなってしまったのではいけないのです。そうするためにはどうすればいいのでしょうか。永遠に互いが好きでいられる息子にならなければなりません。そういう息子になろうとすれば、悲しみの対象としての姿を見せてはいけないのです。
その次に神様の体に合わなければなりません。ここで体といえば方向性をいうのです。考えは四方の中心点を代身しますが、体は方向性として現れるのです。神様の心に合う息子になろうとすれば神様の体が東に行くという時、神様と共に東に行かなければならないのです。神様は温かい物が好きですが、イエス様は冷たい物が好きだとしたらどうですか。神様は今笑いたいし話したいのに、イエス様は寝たいと言ってもいいですか。外的な体を中心として現れるすべてのことが一致しなければならないのです。
それだけでよいのでしょうか。違います。神様は和気あいあいとした雰囲気が好きなのに殺伐としていてはいけません。神様が和気あいあいとしている時には和気あいあいとしなければなりません。内と外が合わなければならないというのです。このように内外がぴったり合えば完成でしょうか。その次には神様のみ旨と一致する作業をしなければなりません。そうしようとすれば心にないことがあるでしょうか。体が嫌がることがあるでしょうか。心と体が喜ぶことをしなければなりません。神様がいらっしゃるとすれば神様が喜ぶことがあるはずだというのです。またイエス様が神様の息子であれば、イエス様もそのようなことで喜ばなければならないというのです。
天国は命を懸けなければ絶対に行くことができないところです。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がそうなっているのです。
(3)天国の始まり
天国はどこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かずに天国に入ることはできません。私たち人間が堕落して以来今まで悲しい歴史をつづってきたので、悲しい歴史のすべての因縁を直接探さなければなりません。アダム・エバから六千年の歴史の中でその因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えてくれるのが原理です。この世の人たちは、悲しみがあるところはみんな嫌だと逃げていきます。そのどのような悲しい事情よりももっと悲惨な神様の悲しみを教えてくれるのが原理です。この世で悲しいことがあれば避けて逃げていきますが、原理ではその悲しみを経ていこうとするのがモットーです。この世では悲しいことがあると全部避けていこうとするのに、原理を知った人間はそうできないようになっています。
神様についての悲しみを知れば知るほど、神様の悲惨な内容を知れば知るほど、実際においてはそれを解いてさしあげようとする強力な力が出ます。力は無限に爆発作用を起こす動機になります。これが私たちの教会がもっている偉大な力です。
(4)天国の本質
天国とはどのような世界でしょうか。そこは本然の世界ですから、サタンに讒訴される個人とか家庭とか氏族は入ることができません。天国に入ろうとすれば、個人と家庭と自分の親戚である氏族が一つにならなければなりません。言い換えれば三代が一つにならなければなりません。アダムの家庭を見てみる時、アダムが一代、カイン・アベルが二代、カイン・アベルの息子が三代、このように三代が一つにならなければなりません。神様を中心として見ると、神様が一代、アダム・エバが二代、カイン・アベルが三代になります。
天国は「為に生きる世界」なので「為に生きる」という観念だけを主としなければなりません。「為にしてほしい」という考えをもつと砕け散ってしまうのです。
天国は神様の愛が充満した世界です。愛の本質は「為にしてほしい」と言うのではなく、「全体のためになる」というものです。それで天国はこの世と違うのです。
宗教の教えは為に生き、絶対服従し、犠牲になり奉仕をしなさいというのですが、この世にはそのようなことはありません。これはこの世の何も分からない乞食たちがすることのようですが、天法を知らなくても福を受けることができるようにする、サタン世界に対する神様の暗号作戦でした。
私たちは本郷の地を見つけることができませんでした。本郷の地を見つけることができなかったので、本郷の祖国を失ってしまいました。本郷の祖国は地上天国のことを言います。天国といえば地上天国があり、天上天国があります。
国になるためには三大要素が必要です。まず主権がなければならず、その次には国土がなければならず、国民がいなければなりません。しかし神様には主管することのできる主権がありません。主管することのできる人類がありません。よって祖国がないのと同じです。ですからこれは、本然の人間が生きるべき世界ではないというのです。