第4章 天国 : 第一節 天国に対する理解 : 8. 天国に対する正しい見方

 たとえ暴風雨が吹き荒れていたとしても、私が死んで滅んだとしても、「この信念だけは間違いない。間違ったのは私であってみ旨は間違っていない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と夕方の信仰が違うような信仰姿勢をもっていながら天国を慕うとするならば、それは余りにも愚かなことです。
 天国に接近できる道はどのような道ですか。自分を考える場所では天国に行く道はできません。自分が天国とは遠く離れているということを発見するようになったなら、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃するところだけに天国、また間接的な天国でも開放することのできる道が開かれます。しかし自分を擁護する立場で相手を自分に適応しようとする人、自分自身を主体的な立場に置いて相手を引きずっていこうとする人は天国と関係を結ぶことができません。
 確かなことは、天国は自分から成されるということです。いくら相対的天国が完備されていても、その天国が呼ぶ時に応えることのできる自分自身になっていなければ、その天国とは関係がなくなります。
 天国とはどのようなところでしょうか。サタンを屈服した場所ではありません。自分自身だけを屈服した場所ではありません。堕落した世界圏、主観的な環境圏または常習化したところには天国が臨むことができません。この常習化した環境をサタンが固執し支配しているのです。サタンがここに住み着いているので、このサタンの環境を克服して初めて天国が来るのです。天国はサタン世界の内容と相反する場所に成されます。もしそうでなければ天国になることができません。天国という名前がついたとしても、それは環境を籠絡するためのごまかしにしかならないのです。
 天国という概念はサタンを屈服した場所で、サタンが相手にすることのできる一切の要因を否定された場所、否定するだけではなく清算されたところで成立することができます。サタンの否定的な条件が残っている歴史的遺物とか、生活のすべての内容を否定して清算した基盤に天国が肯定されるのであって、それを残したままでは天国の内容を提示することができません。天国はこのように高貴なものです。
 聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22・37)という句があります。「主」という言葉は永生について忘れることのできない内容を備えたところで認識できる言葉です。主なる神様を信じるところから天国が到来するのではなくて、主なる神様を愛するところから天国が来るのです。父のみ旨は愛するところから成されます。信じるところからではなく愛するところから成されます。
 神様が願われるのは個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て天国がすべて成されたということができるでしょうか。神様が喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは彼を中心として万国を横的に連結させて、全体の天国を模索しようとされたのです。それでメシヤをこの地に送って犠牲にされたのです。