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第4章 天国 : 第一節 天国に対する理解 : 5. 肉身と地獄 |
アダムとエバは神様の体です。コリント人への第一の手紙3章16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とあるように、この体は神様が臨まれる家なのです。その家は、今日の堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われようとする、故障して修理工場を経てきた体に神様が臨むのではありません。純粋な初愛をもった創造理想的人間でなければなりません。しかし神様の愛の圏内から脱したのが人間なのです。地獄とは何でしょうか。悪魔の支配圏内をいいます。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで悪魔の圏はそのようなものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。そのような悪魔は断絶してしまわなければなりません。
神様の胸に釘が打ち込まれた理由は何ですか。悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭ができたというその事実のゆえです。神様の管理下で千年万年愛して暮らせるはずの家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が世界的に広がったのです。今、世界には180余りの国があります。それも数多くの氏族が戦い合って、弱者が強者に吸収されてこの程度です。これを神様のみ旨の中で一つにしなければなりません。では、サタンはどこに根拠地を立てましたか。サタンも神様も知っています。
神様は創造本性の起源であり、悪魔は本来その起源を通じてつくられたので、相対的基準に立っているというのです。人間を見る時、この起源的基準が良心です。良心は誰に似ましたか。神様に似ています。ですから神様の味方だというのです。体は誰に似たのかというとサタンに似ているので、サタンの味方だというのです。
良心が体のためにどれだけ犠牲になったでしょうか。夜も昼も自分を管理するのに疲れているのが良心です。それでも倒れずに、体が悪いことをしようとするのを防ぐのです。自分に最も近い、両親の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体に教育が絶対に必要です。ですから体がしようとするとおりにすれば地獄に通じるのであり、心がしようとするとおりにすれば天国に通じるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。皆さんが心痛いまでに憤りを感じなければならないのは、皆さんの体が悪魔の踊り場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。
悪魔の愛を通して悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今私の体の中で本然の人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これは国でさえも清算する道がありません。
宗教というのは何でしょうか。罪の根と闘うのが宗教の本質的闘争歴史です。それなのに自分はもう地獄に行く版図になっていながら、自分が悪魔の踊り場になっていながら、宗教の旗を掲げて社会を救うとうるさいのです。
自分を嫌わないといけないというのです。この体を嫌わなければなりません。自分の体に怨讐の血がうごめいているのに、これを削るわけにもいかないし、火で焼いてしまうわけにもいかない私自身であることを知らなければなりません。神様の保護を受けることのできない立場に立って万物を消化し消耗する、消耗工場になっているという悲痛な事実を知らなければなりません。
世界も混乱しています。それでは霊界はどうでしょうか。混乱したさまざまな人間像が霊界に行って一ヵ所に集まっていますから、混乱しないはずがないのです。泥棒も習慣になると、いつも泥棒を働くようになるものです。ですから地球星で泥棒を働いた者たちは天上世界に行ってもただを願います。それで処置に困るので地獄というものができたのです。
地獄は神様がつくられたのではありません。地獄はできてしまったものです。ごみ箱を作ってから家を造るのではありません。家を建てて住んでみたらごみ箱が必要になったのです。同じことです。クリスチャンたちは根本が全然分かっていません。
ねたみや嫉妬心が多くて地獄をつくったのではありません。偽者ができてしまったので、偽者を処理する処置倉庫として地獄をつくったのです。誰がごみ箱をまず作っておいてから家を造りますか。キムチをつけようと思って良い白菜を買ってきたのに、つけているうちに虫に食われた部分が出てきたので、しかたなくごみ箱に捨てるほかなくなるのです。堕落は人間の始祖が犯してしまいました。ですからこれを蕩減して罪を清算するには、真の父母の資格をもって初めて可能になるのです。
今まで人間の世界に生まれた人たちに神様が救うことのできる条件が一つもなかったので、みんな地獄行きでした。虫に食われ、蛆がわいているけれど、それを豚にでも食べさせてほかのところに使おうかと言って、しかたなく持っていって貯蔵したところが地獄です。地獄と楽園があるのです。このように話せば、天国は空いているという言葉を実感することができます。
皆さん! 自分の子供の中に強盗殺人犯がいたり、国家的犯罪を犯して死刑になる息子がいたとします。息子が死に場に行く時、その父母がついて行って「死に場に行くが死ねばよい」と言う父母がいるでしょうか。その息子をつかまえて、自分の死の場に共に臨もうとするのが父母です。
子供の死が永遠に持続するとしたら、父母がそれをながめてじっとしているでしょうか。永遠に死んでいくのであれば、永遠をかけて生かしたい心をもつであろうし、子供を生かすためにどのような苦労もいとわないはずです。このように考える時、神様はかわいそうなお方です。
人間が死んで地獄に行くのを見る時、神様は永遠に生かしてあげたくてゆきもきするのです。それこそが天の父母としての責任を果たすことであり、「えい! 全部なくしてしまえ」と言うのであれば、父母の立場に立つことができないというのです。ですから、地獄まで解放しなければならないという論理が成り立つのです。
息子を生かすためにやきもきする情景を見た息子は、「私のお父さん、お母さんが私のゆえにあんなふうになって」と言いながら、一千万回罪を悔い改めるようになります。そのような父母がいれば、その子供は骨が解け、やせこけるほど悔い改めるでしょう。親によってそうなる道ができるというのです。
サタンも、人類を救おうとする神様の愛の前では讒訴できないのです。父母の愛を通せば、悔い改める者を許せないはずがありません。そのような心情を通して地獄までも解放しなければなりません。それが真の親孝行者としての道ではないですか。それで教会では地獄までも救おうというのです。それは神様がそういうお方だからです。
地獄というところは、一度引っかかってしまうと永遠に抜け出ることができないところです。それなのに皆さんは自分の父親、母親、それから親戚が地獄に行くということが実感できません。ただ「何とかなるだろう」と思っています。しかし愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみてください。この世で牢獄に入るというだけで泣いたりわめいたりしながら、ましてや天情で結ばれた息子・娘が、自分の父母や親戚、兄弟や姉妹が永遠に出ることのできない牢獄に行くということを知ったならそのようなことを思いますか。
皆さんはまだ何も知りません。地獄があるのかないのか、あるにはあるようですが、どのようなところか分からないでいるのです。確信もないし、ぼんやりしているはずです。しかし死んでみれば分かります。死んでみれば一遍い分かりますが、その時はもう遅いというのです。
それで今死んだ父母たちが霊的に現れ、伝道をたくさんしています。私たちの教会に通っている息子たちに反対しているうちに死んで、霊界に行ってみたら大変なことになったというのです。それで霊的に現れて伝道する霊人たちがたくさんいます。そうしなければ三世界で引っかかるからです。自分の息子・娘が統一教会に通うことに反対して通えないようにさせると、三世界で引っかかるというのです。
ですから天上世界でもっているすべての精誠を尽くして善なる先祖という名前で特使を受けて、自分の子供に現れて教えるのです。誰でも現れることができるのではありません。そういう世界に行って初めて私たちの教会がものすごいところだということを知るようになる時、あまりにも驚いて息もできないくらいではないかというのです。
私たちの教会は、ただこのように集まっては別れるところだと言うかもしれませんが、そうではありません。ここで線を引けば永遠に引けるのです。このドアを閉めれば永遠に開ける者がいないし、開ければ再度閉める者もありません。地上で結んだものは地上で解かなければならないから、皆さん自身が結んだものは皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。ですから皆さんが伝道をするのにおいて、これからほかの所に行ってしないようにというのです。