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第4章 天国 : 第一節 天国に対する理解 : 4. 心情と天国 |
天国は、準備したものをもって誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。ではその天国はどのような人が行くところでしょうか。主を信じて、福を受けようと、福を先立てる者が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行くところです。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残し、喜んで行ける者が行くところです。そこに復活があるのです。
天国というところは、心情を通じなくては行くことができないところです。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国だというのです。その国は、事情をもっては所有できません。深く染み込む心情の因縁をもってこそ、所有することができる国です。それゆえ、キリスト教は究極的に事情に通じる教会ではなく、心情に通じる教会です。事情の因縁を越えて、心情をうたうことができる基盤を築くために、地に対して摂理される天の目的があるのです。
自分が先に侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を下げて恋しがるのが人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたがるのが、私たち創られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる侍る生活をしたことのない人は、天国となんらの因縁もないというのです。
侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経た後に、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経た後にこそ、天国に行くのです。心情で侍る人が行くところが天国です。侍ることのできる準備と侍る生活をたたえ、高く顕す世界が天国です。私たちはこのような目的の世界に向かって行くべき運命に置かれているのです。堕落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったのかといえば、ありませんでした。堕落する前に、私たちの先祖のアダムとエバは創造理念を通じて育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍ったことがなかったというのです。
神様は恨は何でしょうか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍ることができない立場に落ちたことであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られなかったことです。
信じる者がいないのが恨ではなく、神様を知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じて神様に侍り、心情を通じて神様に対することができる人がいないのが、天と地の恨なのです。
天国と地獄がどこから分かれるかといえば、聖書をよく知って言葉が上手かどうかで天国と地獄が決定するのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。