第4章 天国 : 第一節 天国に対する理解 : 3. イエス様と楽園

 イエス様を信じて天国に行こうと言いますが、誰が天国に行くというのですか。自分個人が行くというのでしょうか。今までお父さん、お母さんに仕えて家庭が共に天国に行こうという宗教はありませんでした。今までの宗教は個人圏を中心にしました。しかしこれからは、家庭が共に天国に入らなければならないという宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われる宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今までの宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていくような個人の救いの宗教でした。
 それゆえ、修道の世界では独身生活を強調したのです。家庭をもっていることが怨讐だというのです。イエス様も家庭が怨讐だと言いました。みな上がってきては、地上の主権をつかまなければならず、独身男女は祝福行事に入らなければなりません。天国は本来の息子・娘が結婚して、神様の愛を受け入れるところです。それが本来の、人間が堕落しないで完成すべき天国です。
 イエス様は霊界に一人で行きました。一人で行ったために、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は天国に行くための待合室です。楽園は理想的な天国ではありません。天国は、夫婦が家族を連れて入らなければなりません。それゆえイエス様は、再び来て新婦を迎え、新しく編成された家族と民族を連れて天国に入らなければならないのです。そのようにするために、神様がイエス様を楽園にとどまらせたのです。それゆえ、再び地上に来て、その原則的な内的基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。

 イエス様がどうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は堕落しないで生きた者が入ることができるように、神様が人間につくってくださったものです。
 人間は、本来の原則的な基準に立てられてこそ天国に入ることができます。それゆえ、イエス様ご自身も堕落した人間を救って、堕落しなかった人類の父母であるアダム・エバの立場で、息子・娘を率いて入らなければならないのです。しかしイエス様は一人で生まれ、一人で死んだので、子孫がいますか。子孫がいないために楽園に行くようになったのです。一人で行ったので、天国に入れずに楽園にいるのです。天国に行くための待合室のようなところに行っているのです。
 それでイエス様は、再び来て新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム・エバが新郎・新婦になってこそ天国に行くようになっていました。人類始祖が堕落したとしてもその原則は残っているので、その原則どおりに花咲かせるために、イエス様が来られなければならないのです。再び来て、地上で解かなければならないという聖書のみ言と同じです。