第3章 霊界 : 第三節 霊界の内容と状況 : 4. 霊界での衣食住

 皆さんが、今朝ご飯を食べたといって、明日の朝は食べなくてもいいですか。皆さんの生命は死ぬまで、「ああ! ご飯!」と言うのです。
 同様に霊界では毎日のように神様のみ言を食べなければなりません。ですから、ここで訓練をしなければなりません。あの世に行っても、「神様がどんなみ言を語られるのか? あのみ言はどんな意味か?」というのが願いです。
 あの世にパンの工場があるでしょうか、ないでしょうか。コカコーラやジュースを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。ありません。そこに自動車を造る工場がありますか、ないですか。あの世に行って、「私はよい車に乗って回る」と言いますが、地上では、ベンツか何かに乗って、どうだこうだと誇りますが、霊界ではそれが必要ありません。
 あの世に行って何をするのでしょうか。食べますか、食べないでしょうか。食べればいいです。食べるのに何を中心として食べるのでしょうか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもつことのできなかった人は、食べようとしても口が開きません。それが決まりです。
 自分を愛する心だけで、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。食べる物を箸で口にもっていこうとしても、箸が他の所に行くのです。そのために霊界は、真の愛をもってこそすべてが可能な世界であって、真の愛をもたなければすべてが不可能な世界です。
 レバレンド・ムーンが教えることは、心情の潮流です。天国の神様の宝座と神様の心情まで経て、万国が通じることができ、全体と関係を結ぶことができる心情の潮流をいうのです。
 霊界では、よい家があって、その家に暮らす人の級が自分より低ければ、その家を自分のものにすることができます。それはその家を訪ねていけば分かるようになっています。
 神様の息子・娘になれば、膨大な宇宙が全部自分のものになります。皆さんが霊界に行けば、先生について回ることはできません。それは皆さんの心情の門が狭いからです。真の愛は、大きい門でも小さい門でも自由に行くことができます。真の愛でなければそれができません。

 霊界には、自動車もなく食べ物もありません。私たちは霊界で創造主であられる神様のように、すべての種類のものを真の愛を中心として作ることができるのです。
 愛を中心として、どのようなものでも作ることができます。「ある工具現れよ!」を言えば、すぐにその工具が現れます。また、晩餐会場に、数千、数百万名が参席したとき、どのような食事でも願いさえすれば、準備されて出てくるのです。金色の正装を願えば、即時にそのような正装が出てくるのです。
 また霊界では眠りません。霊界では眠りがないために、真夜中にも自分の体を通過してすべての部分で踊りを踊ることができるのです。霊的に自分がそうするのは、永遠に楽しみが満ちるようにするためです。
 空気も愛の空気、食べ物も愛の食べ物、洋服も愛の衣服を、真の御父母様が真の愛を中心として下さるのです。

 地上では、ご飯を食べて暮らせるかどうかが心配です。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要です。家でも何か食べ物のために大騒ぎです。霊界に行くようになれば、それが必要ではありません。自動車が必要ではなく、飛行機が必要ではありません。瞬く間に億万里でも行くことができます。太陽の光よりももっと速いのが、この霊力です。神様が造った太陽の光でも、一秒間に三億メートルを走ります。
 ところで神様の本然的な愛の力、生命の力というのは、それより何千倍も速いというのです。誰かに会いたいと言えば、何億万里、何百万里離れているとしてもすぐに現れます。広い天国に行っていますが、自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたいとすれば、その場で相手が現れるのです。
 それゆえ、今から何百万年前に生きた人も来て、あいさつするのです。何千年前と今の時が、どれほど変わったかというのです。その時代の人たちは、今暮らす人よりも、心では天をよく感じることができたのです。
 そうですが、文化生活の面では反対だというのです。文化生活と共に、霊的世界を啓発するようになってくるのです。知識に通じるようになれば知識の測度によって理解し、すべてを分析するにおいて鋭敏なのです。それゆえ、霊感を摂取することができる基礎が、もっと拡大されていくのです。これからは、そのような知識が豊富で世界の流れを心配する人たちには、自然に霊界から教えてくれるというのです。 
 霊波を通じて、どのようになるのかが分かるのです。最高の立場に行くようになれば、終わりは一つしかないというのです。