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第3章 霊界 : 第一節 肉身をもって体恤可能な霊界 : 4. 霊的体恤の過程 |
皆さんはよく知っているでしょうが、私たちが信仰の主体であられる神様を慕い敬う立場に立っているとしても、それは曖昧なのです。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。これが問題となるのです。
主体は確定していますが、自分が感じることができないというのです。私たちがこの五官で分かるように、そうだと確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、その主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければならないのです。
自分自体を見るとき、自分という存在には心と体があるのです。心と体がありますが、体を中心としては調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。
今日、堕落した私たち人間について見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。
一つの円形を描くことができます。一つの水平線を引いて、そこから一度、二度としてずっと十字を描くことによって360度の円形を描くことができます。一つの水平線を引く、ここから90度の分別の度数が定まるのと同様に、私たちの心が必ず円形であれば、これをどのように引くかというのが問題です。その水平線は、引く人によって形態が各々違うのです。私たちの顔が違うのと同様に、皆さんの本性も全部違うのです。
ここの0度から360度を引いていくには、必ず度数はこの基準を中心として、数が計算されていくのです。そのように360度の形態の私たちの心が、心の根本がこのような円形なら、その角度を測定する基準が全部違うということを私たちは知るべきなのです。
全部同じではないのです。それはなぜでしょうか。私たちの顔が違い、私たちの趣味が違い、私たちの感じる感情が違うの同様に、その度数を描くことができる水平線と垂直線が違うのです。ある人は、このようになっていれば、ある人はこのようになっていて、それが全部違うのです。その度数を合わせなければならないという結論が出てきます。
そうするには、どのようにすべきでしょうか。0点の位置を探さなければなりません。0点の位置がどこでしょうか。それがあるでしょう? 皆さん自体に、その心の心性をこのように表示すれば、必ず0点があるというのです。0点があって、その0点自体を水平線にするなら、その水平線を中心として、ある垂直線が引かれるでしょう。
天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。これが必ずあるのです。必ずあるということです。
私たちが水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、その0点の基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、その0点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器に0点基準のようなものがあって、それを中心としてすべて調整して、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのような0点基準がなければならないのです。
では、0点基準は、どのような位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅する人たちが、無我の境地とかいう言葉を使いますが、それはやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければならないのです。そのような基準になるようになれば、必ず自己の水平線の基準が反応することができる、そのような何かがあるのです。
心にも心の門があります。心門と言います。その門はいつも一面だけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動します。それゆえ、この門を通らずには、プラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。
皆さんが、祈祷してみれば時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのと違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのとはすべて違うのです。
そのように、私たちの心の状態でも、感じるその基準が違うのです。私たちの肉体的な感覚は四季の変化によって変わりますが、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷するにも、どのような時間にうまくいくかを知らなければなりません。それは何かというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいって、そこにだんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤することができる道が生じます。
皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。このが全部混ざっているために、それをより分けていくということは、限りなく難しいのです。
このような結果と同様に、私たちの心の世界も同じです。心も、善の心があると同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」このように考えていますが、心自体は善ではありません。堕落の結果によってなされたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もおり、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。
それゆえ、いちばん重要なことは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、信仰生活で最も重要な問題です。このように考えるようになるのです。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければなりません。いつも随時探して合わせる生活態度が必要です。
それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。
だんだんとこの相対的立場に立つようになれば、どのような現象が起きるでしょうか。今まで感じられなかった新しい立体的な感じが来るのです。それが何だか分からずに来るのです。
昔は、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、、春のような気分が感じられるのです。なぜですか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、私たちの心の世界も、回りながらそのように変化し感度を感じるのです。
それが一年を見れば春夏秋冬です。その一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があります。朝は春に該当するのであり、昼は夏に該当するのであり、夕方は秋に該当するのであり、夜は冬に該当するのです。
このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができるのです。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えています。
私たちの心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられることがいつも同じではないのです。季節によって自分が春だということを知ればいいのですが、分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、どのような時に置かれているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。
そのような境地に入るようになれば、どのような現象が起こるでしょうか。私たちの言葉に暗示という言葉があります。それは何の意味でしょうか。自分が道を何げなく行くのに、ある良い家の塀に留まっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥はばたばたと飛んでいきましたが、それを通じて内々に何かを教えてくれる、そのようなことが繰り広げられるようになるのです。
実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言うことに何かを悟らされるのです。このようなことが、だんだん、だんだん多くなるのです。
この段階を過ぎるようになれば、どのような形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。
そのようなことを何げなしに過ごしてはならないのです。それを総合して、どのような方向の因縁が自分につながるために現れるのかということを、科学的な面でデータを出しなさい。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、100パーセント的中するのです。そのような体験があるでしょう。
夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられましたが、それが事実の中で実体につながるのです。誰かの夢の中で誰かと歌っているのに、その歌がまさに夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌うその歌だった、このようなことが起こるのです。これは何を言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることをいいます。音叉というものがあるように、共鳴することができる圏内に入ることをいいます。このようなことを限りなく貴く思わなければなりません。
そうなれば、どのようになるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、それを感じることができないのはなぜでしょうか。体を引きずり回される人になって、心がまだ存在性を確立できていないからです。その心が存在性を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元が形成されるようになれば、それは必ず異なります。
祈祷をして次元が高くなるようになれば、心と話をするのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地へ発展していくのです。いちばん最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。
それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何げなく接してはならないというのです。その人が自分に何をもたらしてくれるかと、いつもお腹が空いた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるでしょうか。そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象になるのです。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。
それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。やたらにただ心がうれしくて行くというのです。それを心波といいます。心の波長です。肉の商売をする人は肉屋の臭いがして、布(生地)の商売をする人は布の臭いがします。皆さんの体から臭いがするのと同様に、心の臭いがします。その心の臭いをかぐようになるのです。
私たちの体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。
それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と共に関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落ですべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのです。切断した関係の世界を、私たちが再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ、開拓されないのです。
皆さんに何かを探す心がなければなりません。朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分かるのです。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」。これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。
その段階が高くなれば、どのようなことが起こるのでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものは、私たちが分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるのですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるときには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿一対が小川のほとりで水を飲みながら遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのようなすべての幻想が繰り広げられます。
そのようなことは、偶然の事実はありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきでしょうか。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたところに天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。ですから、全部違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をします。
啓示の段階を過ぎるようになれば、黙示段階です。一日中霊界に入る体験をしたりするのです。そのような世界までつながるのです。神様に対する生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、私たちの生活の場、生活の舞台に適用させることができません。それゆえ、体験をもたない信仰者を信じることができません。体恤的な信仰が高貴なので啓発していかなければなりません。
私たち食口が、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験してみれば分かりますが、高圧に接したような力が入ってくるようになれば、私たちの意識より強い力が入ってきます。超自然的、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、私たちの体は堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。必ず神様の神性に対して反発するようになります。
それゆえ、堕落した人間の前に、どのような神様の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場に立つことができないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にスッと入ってくるのではありません。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こります。それが役事として現れるのです。
このような役事を絶えず行うようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化されて、自然に100パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けて寸分違わないのです。このような現象過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか、指示とか、このような過程を皆さんが経なければなりません。
皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が命令します。皆さんの心が誰かにこのような話をしようとしても、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、叱る言葉ばかり出てくるのです。このような現象が起こります。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったら狂犬として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければならないのです。
このような体恤的過程を必ずもたなければなりません。心で感じたことを体恤して、実践を通じて体験するようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞きません。体恤と実践、これは私たちの信仰生活に最も必要なものです。そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。私たち人間を見ると、大概二種類のタイプがあります。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して道理に合えば認め、道理に合わなければ否定するタイプの人です。もう一つは、道理よりも思いで把握する人です。それを私たちの術語では知的、霊的というのです。霊的な人は内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていく種類であり、もう一つは入ってくる種類です。この二つの種類があります。
そのような立場にあるために、知性的な人は大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようで信じることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいると同時に、生まれつき「神様!」という言葉がとても好きな人がいます。説明する前にただ好きなのです。「お父様」と言っていれば、ご飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいるのです。
霊的な運動において、革命的な運動をすることができる人は、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。信仰生活で偉大なことをする人はたいてい知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は霊的な人です。
世の中がどうであれ、感じるままにします。神様がしなさいと言ったからです。やってみたら、それが実践する環境に伯仲するそのようなことが起こります。こうすることによって、偉大な人物として登場することができるというようなことも起こります。パウロも知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから気が狂ってしまいました。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、それまでのものを全部否定してそれを尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界で指導者になれません。
私たち人間にはこの二種類がありますが、自分はどのようなタイプの人かということを知らなければなりません。たいてい霊的に感じる人は霊的に大きいですが、真理の面では大きくなれません。初めは太いのですが、先細りになるなら、初めから終わりまで一定していないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても霊的な面が小さければ、永遠に行けないのです。それゆえ私たちは、これを調整する生活をしなければなりません。
祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入っていくのです。私たち人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきであり、真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのように人間にならなくては、完全な立場になることができません。