御言の図書館のサイトです。御言をはじめ様々な書籍を閲覧できるようにしてあります。
第2章 死と霊界 : 第二節 死に対する理解 : 6. 死の前での姿勢 |
イエス様は「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と教えてくれました。世の中にそのようなでたらめな言葉が、どこにあるのでしょうか。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。
では、死はなぜあるのでしょうか。死ぬ目的は何でしょうか。生きるために死ぬのです。生きるにも何かの目的があるのです。生きていく人間の目的が全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22/37)ということは、何のためでしょうか。神様の息子になるためです。神様を愛するために、首を差し出しなさいということです。その首が一つしかないのに、最高の立場で死ななければなりません。
それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬにも方法があり、場所があるのです。つまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでもだめなのです。最高の立場、神様の心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国がいちばんです。天下が旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。
今日、私たちは最後の復活の一日、希望の一日を願っています。すべての人が願っているその希望の時は、万民が楽しむことができるとはいえ、そうたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができるのです。その希望は、神様と共にサタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために神様と共に迫害を受けた者であってこそ、占有できるのです。
このような時が私たちの前に来るということを考えるとき、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心をもたなければなりません。そのような切なる心が皆さんからわき出なければ、その希望の一日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができません。
それゆえ、真の生活をするという人は、「私がどんな姿で死ぬのか」ということを考えるのです。80年生きて死ぬその時になってやっと、「私はどんな姿で最後の一日を飾るだろうか」と言ってはいけないのです。イエス様は死の場に行って「すべてが終わった」「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはり、その方は人生の行路において、勝利された方でした。
皆さんは、これからある一日に死ぬようになります。そして死を前にして過去を回顧しながら、どのような言葉を残して行くか、ということを考えてみなければなりません。
この道には友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って来ることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がないならば、そこで最後です。
今日まで神様のみ旨を奉じて神様のみ旨を立ててきた数多くの人たちに、どのような人たちがいるかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきました。
皆さんは、死に逢着するようになっても、それを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、天の前に堂々と立つようになるだろういう希望と、心で憧れた本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。神様の理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つことができる存在になるのです。
世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべてはみな過ぎ去って、後には死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望をもった人であってこそ、天の前に立つことができます。
今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。
私が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。私たちが楽しんでいるすべての喜びは、死と共に消え去る喜びです。すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないのです。
では、悲しみが死と共に消え去り、楽しみも死と共に消え去れば、人間が喜びを探してより良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死と共に終わるのでしょうか。違います。心がそのような方向に動き、真情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。
人間は霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。人々が天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も、希望を抱いて行った人がいるならば、普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったためです。それゆえに、死の道も行くことができるというのです。
皆さんの憧れる心が、現実生活のどのような逆境、困難や悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれないなら、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様は死の峠も越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたのです。今日の私たちも、どうせ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。
では、天の希望を抱いて生きる人は、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱く者です。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人になるべきです。天は、このような希望の息子・娘たちを探しておられます。
このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、その人は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ません。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたなら、天はそれに答えまいとしても答えざるを得ないのです。
それでは、み旨のために「死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬ」というこの言葉はどういう意味ですか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。
では、死ねばどのようになるのでしょうか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだ後には、神様のものになります。それは、私たちが堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、私たちの生命がサタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、神様と因縁が結ばれるのです。
生命と死について見るとき、どちらが強いですか。死より生命がもっと強いのでしょうか。生命より死が強いのでしょうか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知った後には、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。
サタン世界では、どうせ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることができないのです。
では、聖書でいう「死」とは何でしょうか。神様は、永遠なる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せというのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、これは復帰の正常的な論法です。そのようにしなければ復帰ができないのです。
それゆえ、生命を差し出すことができるのかというのが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発する時、生命を差し出すことのできる覚悟ができているかどうかを考えました。
先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬ時、どのように死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時、どのような言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば、生きるかを考えたのではありません。
大韓民国を中心として役事しなければならないために、死の立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とはどこでしょうか。怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟である北韓に行ったのです。
先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北韓を訪ねていったのです。手錠をかけられて牢屋に入る身になるのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、それに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内でいくら忙しい生活をしても、天の法度に背きませんでした。
先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準ですべてを探すことができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生きがいを探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、ありとあらゆる重労働をする立場に入っても「私は負けない、他の人はみな死んでも私は死なない」という信念をもってきたのです。
皆さんは怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるでしょうし、同志の妨害や友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。怨みを抱かずに死ななければならないのです。どうせ死ぬからには、怨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈ったのは、偉大なことです。